晦日

あっという間に1月も終わり。

俺はいつまでこんな仕事をしてるのだろうと思う。就職してそう思い続けて13年10ヶ月も働いていることになる。この仕事に骨を埋めようとは全く思わない、大卒なら誰でも入れるレベルのケチで穢い魅力のない仕事だと思う。

今や37歳である。学生時代の友人はおらず、同年代の話し相手がおらず、SNSのリアルなつながりを求めてないので同年代の指標というものもない。

最近話題の兼近の小説でも買ってみようかと思ったけど値段が高いので止めた。

普段は常にイライラしているよ。十代の時も二十代の時もイライラしてたけど、今もそう。イライラしながら笑い話をしている時もある。

まあ楽しいことはそんなにないよ。趣味は全て捨てたし。資格を取る気力もない。

映画「裸のムラ」

 ネットニュースザッピングで気になったニュース。

 石川県知事の馳浩氏が石川テレビというテレビ局のみに対して自身の元日のプロレス映像使用を認めなかった。これに反発した石川テレビが質問状を突き付けたが、馳浩氏サイドは無断でドキュメンタリー映画で県職員の映像を流したなどと肖像権の取り扱いに対する不満などを述べて、石川県知事と中日新聞系の地方のテレビメディアがプロレス並に対立している。

 映画について過去に観ているので感想を書きたい。

 

 日々生活していて古臭い体質に直面する時がある。政治のいざこざとなるとそんなことのオンパレードである。

 映画の作りはというと保守王国の石川県で七期も県知事を務めた谷本正憲、森喜朗、森の弟子みたいな新しい知事の馳浩を露悪的に表現している作品。

 例えば1人の人間を一年中追えばわずかな信号無視は確実にしているだろうし、運転ならば法定速度をわずかに上回る運転をしたことがある人がほとんどである。そうした欠点だけを浮き彫りにしたドキュメンタリーを作れば簡単に人を貶めることができる。この映画にはそんな露悪重視の作りを感じる。24時間365日公人であり、忙殺される知事の政策面や緊急の災害対策の様子がまるで撮られていないのがその証拠だ。

 取り上げられているのは、よく分からない知事のコップの水滴を丹念に取る女性職員、選挙の出馬では女性支持者だらけで当選確実となると中年の男以外いない様子、コロナは焼酎で消毒するという知事の軽口、無症状なら往来してください発言など。確かにダメである。令和になっても田舎はどこもこんなもんだよと嘆息する。

 けどダメな部分ばかり取り上げても仕方ない。それではしたり顔のどこかのクイズ好きの野党議員の国会質問と同じだ。

 この映画で印象的なのはこの監督が会見場で知事に質問しようと挙手して全く当てられない場面である。映画では全く触れてないが質問のルールとして会場にいる質問希望の記者を全員一回当ててから二回目の質問をすることができる。私は別のメディアで確認したが、この監督は一度質問をし(その場面は映画で流されていない)、二度目の質問をしようと挙手するがまだ質問をしていない記者が大勢いるので当然当てられない。その場面をさも監督が一度も当てられず排除されているかのように映像を切り取っており、作為的なものを感じたのである。

 何かの賞を獲ってるこの映画であるが、私にとっては駄作であった。

 県職員など一般人が写りこむドキュメンタリー映画を作るなら一言くらい許可を得る努力をして欲しい。粗を探す作品に対しては観る側も当然、粗を探し出す努力をする。以上。

雪国

現在の居住地は雪国である。その程度しか書けない。
 匿名性を保持して赤裸々な内容を書くのは難しい。本当は住んでいる場所も学歴も赤裸々に書いた方が悩みなどを書きやすくもなるが、リスク回避のためにはそうはいかない。一節、一節をいちいちオブラートに包まなくてはならないのは匿名ブログの宿命である。
 とりあえず最強寒波なのか10年に一度レベルのボジョレー・ヌーボー寒波なのか分からないが寒波で寒くて指がかじかんでおり、指を動かして温めるために今回はブログを更新することにした。

 最近は本当に下らないことにくよくよ悩む自分と、やけに明るい自分の狭間で生きているだけだ。
 ああ、たかが50年後には自分は死んでいるか、とんでもなく老いぼれているかのどちらかだ。人生は長く短い。今悩んでいることは老人の自分にとっては宝のように贅沢な悩みになるのかもしれない。
私はマイナス思考の塊である。
そんな人間が子育てをするとリスク回避に懸命になり、へとへととなっている。1人で手一杯だ、2人3人育てる人を尊敬する。
 私は独身の人間相手に結婚の話はこちらからはしない。結婚しているかしていないかなどコンビニでチキンを買うか買わないかくらいの違いでしかない。
 そして結婚して子供がいない人に対してこちらからは子供の話はしない。気を遣っているわけではない。そもそも他人に子供の話をしたいとも思わない。
 他者は平気で「2人目はまだか?」と言ってくるが、別に気に障ることでもない。ああ、子供を2人持つのがデフォルトと思っている固定観念の持ち主なんだなと思うだけである。
 最近はもう人の悪口を言わなくなった。言ってもスッキリしない。慈悲深さがこの世で最も尊い
 自分と関わった人は元気に暮らして順調に老いていってほしい。
 指が温まったので今回はここまでとする。

ハイ・ライト

三十数年、独身で鬱々と過ごしてから婚活して結婚し、子供が生まれ、自分が主役の人生を捨てて子供の人生の脇役として生きている。

一冊の本を読む気力もなく、録画したテレビ番組を見る暇もなく、微かな楽しみにしようかと年末ジャンボを買おうと思っていたら発売期間が終了している。

就職前はバイトをバックレてばかりいたのに、いつの間にか13年も同じ会社で働いている。死ぬまでの人生を勘定しながら安月給で金を貯めている。

多分、これでいいんだろう。

 

 

日本ベスト16で散る

「勝負を打って出て微差で負けるようになったらもう悟ったほうがいい

自分にはもう勝つための決定的な何かが欠けているのだ……と」『銀と金』より

 

そう思う。ベスト16で微差で負け続けるのは決定的な欠落があるのだろう、それを探して強化するのは日本サッカー協会の仕事だ。頑張ってほしい。

たまたま午前2時に起きて延長戦とPKを見たけど日本はPKが下手すぎ、というかそもそも久保の不在が痛すぎたな。勝ってガチのブラジル戦を見たかった。

まあお疲れ様でした。

4年後は…まず自分の4年後の年齢を考えたくもないな。

W杯と快と不快

独身の頃は最強伝説黒沢の冒頭場面に胸をえぐられたものだ。W杯を応援する黒沢が日本が負けて愕然とする場面。

「どんなに大掛かりでも所詮は他人事、他人の祭り」

 

「所詮は他人の祭り」。

今となってはそうは思わなくなった。

他人の祭りでも快感を得られるならどんどん利用すべき。人生なんていかに合法的な脳内麻薬を出すかが勝負なわけで、自分の祭りだろうが、他人の祭りだろうがとにかく脳内を満たしちまえばいいのだ。

人生とは常に「快」か「不快」の二択なわけで、いかにトータルで「快」が「不快」を上回るかが勝負。

スポーツ観戦はひいきのチームが弱いと「不快」だが、勝ったときは強烈な「快」が来る。

 

宝くじも当たるわけがないが買って抽選を待つ間が快感なら買えばいい。外れて不快にならない程度の金額を買えば精神衛星上ではトータルではプラスになる。

 

他人の愚痴は言わない方がいい。不快なだけで快感を得られることはまずない。

オナニーは、、、おっと下ネタは人によっては「不快」だ。

寝ることにしよう。

 

被りを恐れる気質

祝日なので久しぶりに更新します。

 

高校の頃、受験先を決めようと少数定員の農業系の学校を受けようかと思っていたがクラスメート(会話のしたことない男子)が受けるのを知ってからは受験を止め、自分の高校から誰も受けないような遠くの学校を受験し、入学した。

クラスメートとまた同じ学校で遭遇する気まずさを思うと遠いどこかへ逃げたくなったのだ。
思えば「被るのが嫌」という意識が自分の人生を臆病にしている気がする。

辛坊治郎氏が言っていたが、プライベートで挨拶されたくないから経済的には新幹線でグリーン車に乗れるのに敢えて普通席を取るというのはよく分かる(自分はグリーン車に乗ったことがないし、グリーン車に乗るような知り合いがいるわけもないけど感覚としてはよく分かる)。街で知り合いを見つけるとアンラッキーな気分になる。行動が被るのが嫌である。
街に出て、ユニクロで買ったシャツが他人と被るのが嫌だからユニクロをあまり着ない。服が被るのが嫌である。

こういうことで精神を無駄に消耗している。

実際は被るのが嫌というより、他者が自分と被るせいで迷惑を被るのが嫌なのである。他者に嫌われたくない、そういう精神が底にはある。

 

これまでの人生を振り返って結論としては、被ることを恐れてはいけないのである。恐れているとストレスが溜まり、心と身体に悪いから。

自分が欲しいと思ったものが他者と被ったとてそのまま突き進む衝動こそが人生である。「こんにちは」「奇遇ですね」「ありがとう」「すいません」「ではまた」だけを多用すれば誰かと何かが被ったとて生きていけるだろうと思う。

被って嫌われたらそれはそれでいい。生きている時代が被っている時点で他者とは既に被っているのである。