暑さと死のあいだ

七月二十四日、金曜日。
休み。
休みなのに、休んだ気がしない。
朝から皮膚科へ行き、待合室で順番を待つ。病院という場所は、不思議と時間まで病気になる。時計の針だけが異様に遅い。
身体は疲れている。
いや、「疲れている」という言葉では足りない。胸の奥に重たい石を入れられたような苦しさがある。何をしても、その石は転がらない。
家で愚痴をこぼす。
すると妻が怒る。
愚痴は空気を悪くする。そんなことは分かっている。だから黙ればいいのだが、黙れば黙ったで、胸の中に錆びた釘が増えていく。吐き出しても駄目、飲み込んでも駄目。人間というのは、案外、不便な構造をしている。
ふと思い出した。
前の前の会社で、よく一緒に仕事をしていた年配の同僚が、昨年、用水路で亡くなっていたという。
病気を患い、最後は認知症で徘徊し、そのまま帰らなかったらしい。
あの人は、よく笑う人だった。
仕事の愚痴を言いながらも、昼休みには冗談を飛ばしていた。その人の人生の終わりが、用水路だったという事実を受け止めきれない。
人間の最期は、努力にも性格にも比例しない。
あっけない。
あまりにもあっけない。
暑い日が続く。
空気は熱く、身体は重く、心は乾いていく。
それでも季節は何事もなかったように進み、人は働き、病気になり、老い、そして静かにいなくなる。
今日という休日も、休息ではなく、人生という長い消耗の途中にある、一枚の薄い紙切れのようだった。

笑えるうちに笑え

七月十七日、金曜日。
暑い。
朝から空気が重い。工場の中は熱をため込んだ巨大な箱で、人間はその中で黙々と動く部品になっている。汗は流れるというより、身体から漏れ続けている。仕事は終わらない。今日終わっても、また次がある。
もう、うんざりだった。
うんざりという言葉は便利だ。怒りも、諦めも、疲労も、その一語に押し込めることができる。何かを変えようという気力すら暑さに蒸発して、残るのは「早く帰りたい」という、あまりにも小さな願いだけだった。
帰ってからニュースを見た。
松本人志が、がんを公表した。
人は歳を取る。病気にもなる。そんな当たり前のことを、好きだった人のニュースで突きつけられると、急に現実味を帯びる。
私は今でも、松本人志が一番好きな芸人だ。
笑いというのは、現実を消してくれるものではない。現実の上に、ほんの数分だけ別の景色を重ねてくれるだけだ。それでも、その数分に救われる人間はいる。少なくとも私はそうだった。
だから、病気のニュースを見ても、「芸人・松本人志」が私の中で色あせることはない。
今日も暑かった。
仕事にはうんざりした。
人生は相変わらず思いどおりにならない。

笑えない日でも笑うしかないのかもしれない。

暑い、疲れた、暑い

七月九日、木曜日。
朝から暑かった。
暑いという言葉では足りない。熱気が皮膚にまとわりつき、工場全体が巨大な肺みたいに熱い息を吐いている。地獄に釜があるのなら、たぶん今日の職場と似た温度だ。汗が目に入り、脚は重く、頭はぼんやりしてくる。熱中症寸前。身体は「もうやめろ」と叫んでいるのに、勤務時間はまだ終わらない。
昼休み、スマホでダルビッシュ有の話を読んだ。
二十歳の自分が、四十歳になって仕事もなく、落ちぶれ、ホームレスになった未来を想像する。そこへ神様が現れて、「一度だけ二十歳に戻してやる。今度はできることを全部やれ」と言われたつもりで生きる。
なるほど、よくできた話だ。

 

などと思えるわけがない。
妄想は妄想でしかない。神様は現れないし、人生はそんなに都合よく巻き戻らない。目の前にあるのは灼熱の工場と、終わらない作業と、身体の悲鳴だけだ。
自己啓発というものは、元気な人間が読むと勇気になる。疲れ切った人間が読むと、少しだけ腹が立つ。こちらは「人生をやり直す」以前に、今日を無事に終えるだけで精一杯なのだ。
暑い。
疲れた。
暑い。
それ以上の感想が出てこない。
人間は極限まで消耗すると、哲学も希望も蒸発する。残るのは水分と塩分が足りない身体だけだ。
今日は地獄の釜の底で働いた。
明日も、その釜に戻る。そこが今の私の持ち場である。

全員死ぬ

七月八日、水曜日。
今日は工場清掃の日だった。
機械を止め、床を掃き、積もった埃を落とす。汚れは思っている以上にしつこい。毎日少しずつ積もって、気づいた頃には、そこにあるのが当たり前になっている。人間の疲労も、たぶん同じだ。
一日の終わり、お局に文句を言われた。
たいした内容ではない。いや、本人にとっては重大なのだろうが、こちらにはもう反論する気力も残っていない。「そうですか」と受け流す。腹は立つ。しかし、その怒りすら疲労に押し潰されて、輪郭を失っていく。
職場というのは不思議な場所だ。
誰かが誰かを注意し、誰かが機嫌を悪くし、誰かが辞めていく。みんな、自分の小さな正義を振りかざして生きている。でも、その正義も、工場の埃みたいなものだ。掃いても掃いても、また積もる。
帰り道、ふと思った。
全員死ぬ。
お局も、工場長も、私も、フォークリフトも扱う人間も、今日すれ違った誰もが、いつか必ず死ぬ。その事実だけは、この世で最も平等だ。金持ちも貧乏人も、偉い人も新人も、最後は同じ方向へ歩いていく。
そう考えると、今日言われた文句も、少しだけ小さく見えた。
もちろん、明日になればまた腹は立つだろう。疲れもする。人間はそんなに悟れない。
それでも、「全員死ぬ」という事実だけは、どんな理不尽にも容赦なく覆いかぶさる。
そう思いながら家へ帰った。
明日もまた働く。
死ぬ日まで、たぶんそんなことを繰り返す。

曇天消耗

七月五日、日曜日。曇天。
朝から空は灰色だった。
雨が降るわけでもない。ただ、世界全体が「今日は晴れません」と決めたような色をしている。そんな空を見ていると、自分の身体も同じ色をしている気がした。
疲労困憊。
この四文字だけで今日の大半は説明できる。仕事の疲れは土曜日では抜けず、日曜日になっても身体の奥に沈殿している。疲労というのは借金みたいなもので、返したつもりでも利息だけが増えていく。
子供だけは元気だった。
朝から走り回り、笑い、叫び、世界を全部遊び場に変えてしまう。あの底なしの体力は、いったいどこから湧いてくるのだろう。見ているだけで眩しい反面、少しだけ残酷でもある。こちらには、その勢いに応えるだけのエネルギーが残っていない。
妻は体調を崩していた。
家の中の空気が少し重い。誰かが元気を失うと、その分だけ別の誰かが踏ん張らなければならない。家庭というものは、そういう危うい均衡の上に成り立っている。
合間にまた転職活動のことを考える。3年連続で。
今の場所に居続ける未来と、新しい場所へ行く未来。そのどちらにも不安がある。選択肢があるようで、実際は選ばされているだけなのかもしれない。
曇天だった。
空は最後まで晴れなかった。
けれど、子供は笑っていた。妻には早く良くなってほしいと思った。そして私は、疲れた身体を引きずりながら、また明日へ向かう準備をしている。
人生は劇的には変わらない。
曇り空のように、少しずつ色を変えながら続いていくだけだ。

平日労働、休日家族

七月四日、土曜日。
無力である。
朝からずっと無力だった。何に対して無力なのかと問われれば、だいたい全部に対してである。仕事にも、家庭にも、自分の気分にも。人間というものは、たまに突然、自分がただの柔らかい肉の塊でしかないことを思い知らされる。
ホームセンターへ行って苗を買った。
苗。未来の象徴みたいな顔をして売られている、小さな緑のかたまり。土に植えれば育つらしい。育つ、というのは羨ましい。こちらは育つどころか、毎日すり減っている。植物は黙って伸びるのに、人間は黙って縮んでいく。
帰って、子供がバッタを壊した。
壊した、というのが一番正確な言い方だと思う。脚をちぎって、羽をむしって、虫の中身を外へ出した。子供はそれを悪意なくやる。悪意がないぶん、余計に怖い。生命というものが、そんなに簡単に壊れることを、目の前で見せられると、胃の奥がざらつく。
止めた。叱った。
でも子供には届いているのか分からない。
こちらの倫理とか、痛みへの想像力とか、そういうものはまだ彼の中にうまく育っていない。苗より難しい。
平日は労働。
休日は家族サービス。
どこにも休みがない。
仕事の疲れを家庭で癒やすという構造が、うちには存在しない。家庭もまた、別種の労働なのだ。愛情という燃料で動く労働。燃料切れでも止まれない。
夕方になると、理由もなく憂鬱になる。
いや、理由はある。ありすぎる。
月曜日が来る。工場。フォークリフト。腰痛。人間関係。
苗はこれから伸びる。
バッタは壊れた。
私はその中間で、ただ疲れている。
それが今日だった。

疲労列島

七月三日、金曜日。
今日は一人でフォークリフト。孤独のフォークリフトである。孤独と言うと格好いいが、誰も助けてくれない。

下手をこいた。下手をこくと、その尻ぬぐいは未来の自分に全部返ってくる。未来の自分は常に被害者である。
昼飯を食う暇がなかった。いや、正確には食うべきだったのだが、流れに飲まれて食えなかった。昼飯抜きで作業を続けると、だんだん頭が空っぽになってくる。空っぽというより、脳みそが白く乾燥してパリパリになる感じだ。パリパリ脳でフォークリフトを運転する。危険極まりない。だが仕事は止まらぬ。
過労である。
満身創痍である。
脚が痛い。腰も痛い。肩も変な感じだ。つまり全部だ。人間というものは、疲労が一定量を超えると、どこが痛いのか判別するのをやめるらしい。「全体的に駄目」という雑な結論に落ち着く。
夜、来来亭でラーメンを食った。
来来亭のラーメンは濃い。疲れた身体には、その濃さが暴力的に沁みる。塩分が血管を逆流して脳に届く感じがした。ああ、生きている。ラーメンで生存確認をしている自分が少し情けない。
帰りにファミリーマートへ寄った。
店員が無愛想だった。実に無愛想。笑顔ゼロは別によいが、レシートを放たれてゼロどころかマイナス。こちらも疲れているから、ああいう無愛想が妙に刺さる。だが、考えてみれば、あの店員もたぶん疲れているのだ。みんな疲れている。日本列島疲労列島である。
そう思うと少しだけ許せる。
いや、やっぱり少し腹が立つ。
そんな具合で今日も終わる。
明日もまた脚が痛いまま生きるのだろう。