疲労の輪郭

機械の音。誰かの雑な返事。フォークリフトのバック音。そんなものにまで神経が引っかかる。疲れているのだと思う。疲れていると、人間は世界の全部に棘があるように感じる。
休憩時間もしんどい。
本来なら身体を休めるための時間なのに、狭い休憩室に座っていると、逆に神経が削られる。誰かの会話、沈黙、視線。どこにも逃げ場がない。ひとりになりたいと思う。でも、そういうことを考えている時点で、もうかなり消耗しているのだろう。
もう辞める同僚もいる。
人が抜けるたび、空気が少しずつ荒れていく。残った人間だけで回そうとして、結局みんな余裕を失っていく。職場というのは、壊れ始める時は静かだ。
自分も上達している感じがしない。
毎日同じように働いているのに、いつまで経っても「できるようになった」という感覚がない。周囲は普通にこなしているように見える。そのたびに、自分だけ取り残されている気がする。
全てが嫌になる瞬間がある。
仕事も、人間関係も、自分自身も。
ただ、そんな状態でも明日は来る。朝になればまた起きて、同じ場所へ行く。これが人生なのか。

阿部慎之助を思う。勝っても文句を言われ、負ければ全部背負わされる。あれだけの重圧の中で毎日ユニフォームを着るだけでも、相当消耗するはずだ。
それでも結局、最後は家庭内トラブルで辞任した。人間というのは、外から見える批判より、身近な場所の軋みのほうが深く効くのかもしれない。仕事の疲労はまだ耐えられても、家庭まで崩れ始めると、一気に心の支えがなくなる。
そう考えると、誰もが本当はギリギリのところで生きている。

早朝

休日。午前四時半に起きた。
身体は重かった。疲労が完全に抜けていない。けれど眠れなかった。頭の奥で、何か小さな機械がずっと回り続けている感じがした。
外へ出て、公園まで歩いた。
早朝の街は静かだった。人が少ない。誰もまだ本格的に活動していない時間。社会のエンジンが温まりきる前の、不安定な静けさ。
公園の空気は少し湿っていた。
ベンチに座って、しばらく何も考えないようにした。でも結局、仕事のことを考える。人が辞めること。腰痛。残業。育児。金。未来。頭の中に並んだ単語が、互いにぶつかり合ってノイズになる。
ストレスは消えない。
形を変えるだけだ。
帰りにコンビニへ寄った。
パンを買う。セルフレジ。配送トラック。雑誌コーナー。そういうどうでもいい景色を見ていると、自分だけが壊れかけているわけじゃない気がして、少し安心する。
空がゆっくり明るくなっていた。

難儀

四十歳を機に終活を始めている。サブスクをどのタイミングで解約するか、あらゆるカードをどうするかなど山ほどやることはありそうだ。このブログをどうするかな。はてなが消滅すれば成り行きに任せるのだが、消滅しない場合、人生の終わり付近に消そうか消すまいかどちらが正解かと考えていたらいつの間にこれを書いている。

最近は時計ばかり見ている。今が何の時刻なのか自分でもよく分からぬが、とにかく今日という日が終わろうとしている。今週は暑さが堪えた。それに残業が多い。工場の熱気を身体の内側に溜め込んだまま帰宅し、夜になっても疲労が抜けぬ。人間というものは、ここまで疲れると、もはや疲れているのか生きているのか判然としなくなる。
職場では一名が退職願いを出し、もう一名は転換を拒否した。その余波で、どうやら私が準主力としてやらされそうだ。人生というものは、空いた穴に近くの者を適当に詰め込む仕組みらしい。こちらの適性や希望など、誰も気にしない。
腰が痛い。
重いものを持つから腰の奥がじわじわ痛む。疲労が骨に沈殿している感じだ。若いころは一晩寝れば治った。今は違う。寝ても疲労が翌日に持ち越される。まるでサブスク契約みたいに、毎月自動更新される。
家に帰れば育児である。いわゆるグレーゾーンというやつだ。こだわりが強く、機嫌の波が激しく、一度スイッチが入ると、こちらの言葉がなかなか届かない。可愛い。もちろん可愛い。だが、可愛いと楽は別問題である。こちらが疲労で沈没しかけていても、子どもは全力で今日を生きている。
妻も疲れている。
家族全員が、それぞれ別方向の疲労を抱え、狭い部屋の中をぐるぐる回っている感じだ。誰かが不機嫌になると、それが家全体に伝染する。疲労というものは湿気に似ている。
難儀だ。
実に難儀である。
だが、難儀だ難儀だと言いながら、それでも朝になれば起きて、仕事へ行き、帰宅して、子どもと向き合う。人間は案外しぶとい。いや、しぶといというより、単に途中で止まれないだけなのかもしれない。きつい。

節目と休みの日

三月十一日。
朝テレビをつけたら震災、震災、また震災である。どのチャンネルも同じ顔をして、十五年だ十五年だとやっている。なるほど十五年。数字としてはきりがいい。だが、きりがいいから思い出すというのも、なんだか妙な話である。カレンダーの月と日がぴたりと一致しただけで、社会全体が「はい思い出す日ですよ」と整列して思い出し始める。記憶までスケジュール管理されているようで、どうにも窮屈だ。
もちろん大きな出来事であることは分かる。忘れてはいけない、というのも分かる。だが朝から晩まで同じ調子で語られると、こちらの頭の中がだんだん空っぽになってくる。人間というものは、真面目な話ばかり浴びせられると、逆にぼんやりしてしまう生き物らしい。
そんなことを思いながら、私は相変わらず今月も仕事をしている。フォークリフトに乗る。これがまた疲れる。腕がだるい、肩がだるい、腰もだるい。だるいの三重奏である。テレビでは十五年の歴史を語っているが、こちらは物を持ち上げて、運んで、また持ち上げるだけの歴史である。スケールが小さい。だが小さい歴史も、毎日積み重なると、けっこうな重さになる。
一ヶ月前まで苦しめられていた雪は消えていた。あれほど居座っていた雪が、いつの間にかいなくなっている。季節というやつは、テレビの特集とは関係なく、勝手に前へ進んでいく。
最近、Netflixに加入した。WBCを観るためだったがドラマの方が面白い。『地面師たち』と『サンクチュアリ』が面白かった。詐欺師と力士。どちらも濃い。画面の中の連中の濃さが少し羨ましい。人生というのは、どうしてこうも濃い人と薄い人に分かれるのだろう。
それにしても休みの日というやつは不思議だ。あっという間に終わる。朝起きて、少し用事をして、気づけば夕方。まるで氷砂糖を口に入れたときのように、すうっと溶けてなくなる。働いている日の時間は長いのに、休みの日は短い。これはたぶん宇宙のバグである。
まあ、人生というものはだいたいこんな具合である。今日は特にそんなことを思った日だった。

一日一番

 四時台に目が覚める。目覚ましは鳴っていない。得をしたのか、損をしたのか分からない感覚だけが、湿った布のように身体にまとわりつく。
 これまでの経歴を並べれば、私は移動の連続だ。短大、フリーター、編入、就職、退職、転職、退職、そしていまは工場勤務。履歴書は整っている。だが、その行間には敗北の感触が染み込んでいる。期待はいつも短命で、失望は長く居座る。自信は摩耗品だったのだと、最近ようやく理解した。
 フォークリフトに乗る。粉塵が光の筋の中を漂う。機械音は会話を排除し、人間関係を最小単位まで分解する。挨拶が返らない朝がある。舌打ちのような音が聞こえる。意味は不明だが、脳は勝手に翻訳する。「おまえは不要だ」。その翻訳が誤りだとしても、身体はすでに反応している。心拍数が上がり、視野が狭くなる。人間は事実ではなく、解釈によって消耗する。
 休憩室は狭い。居場所という概念そのものが、そこには存在しない。駐車場からの四百メートルが異様に長く感じられる日がある。だが年休は多く、希望休も通る。利点と欠点は同じ袋に入っている。私は欠点だけを取り出し、重さを測り続ける習性を持っているらしい。
 「一日一番」。その言葉を、最近になってようやく実装し始めた。過去を遮断し、未来を保留する。今日という単位だけを処理する。そうしなければフリーズする。弱気は敵だというが、敵は外部にはいない。胸腔の内側で増殖する仮想のデータだ。
 夕方、帰宅。子がゲームに依存している。その熱量は本物だ。父親として十分かという別の疑問が起動するが、疲労困憊の波がそれを一時停止させる。風呂に入り、横になる。一日は終了する。
 人生が好転した実感はない。だが、破綻もしていない。今日を終えたというログだけが静かに蓄積される。大きな成果は不要だ。崩壊せずに一日を渡りきった。それが現在の仕様だ。
 明日も四時台に目が覚めるだろう。暗い天井を見つめながら、私は再起動する。「一日一番」。それだけをコマンドとして入力し、新しい一日を開始する。

薄膜の一日

一月十六日、金曜日。
朝から頭に薄い膜のようなものが張りついていて、思考がどこか他人事のようであった。重いわけでも鋭いわけでもない。ただ鈍く、鬱々として、ひどく疲れているという感覚だけが残る。身体は動いているのに、心が一歩遅れてついてくる。
昼休みを、私は少し先走って取ってしまった。そのことを咎められ、もっともだと思いながら、胸の奥に小さな針を刺されたような気がした。規則とはかくも人を縛るものか、あるいは私がそれに耐えうるだけの余裕を失っているのか、判然としない。
ともあれ今週は終わった。暦の上では一区切りである。しかし、人生は終わらない。これが救いなのか、あるいは別の重荷なのか、今の私には判断がつかぬ。ただ、終わらぬものの中を、今日も惰性のように歩いている自分を、少し離れたところから眺めている。

ストレス

一月十日。
私の心中を点検してみると、そこには常に三種の重荷がある。大なるもの、中なるもの、そして小なるものだ。大きな重荷が胸に居座っている間は、それ以外のものは影を潜め、ただそれ一つが人生の難題であるかのように思われる。
ところが、その大がふと姿を消すと、今度は中ほどの重荷が、待っていましたとばかりに前へ出てくる。さらにそれが去れば、些細とも言える小さな重荷が、机の隅の塵のように目につき、どうにも落ち着かぬ。
斯くのごとく、人の煩悶は形を変えて連綿と続くもので、年のうち、心が完全に無風である時間は、ほとんど無いのではなかろうか。悩みとは消滅するものではなく、ただ大きさを変えて心に居残るものらしい。私は今日もまた、そのいずれかを抱えたまま、床に就くのである。