憂し

二十歳の原点 (新潮文庫)
人は道化しながら穴掘りするのか、人は無意味さに気づきながら穴を掘るのか。結局は演技するか孤独でいるかの二択しかない。毎日が穴掘り、穴埋め。
最も衝撃を受けた書物は高野悦子氏の「二十歳の原点」だろうか。
自殺という地点に到達してしまうまでの、内側へ突き進む自己の孤独との向き合い方には震撼させられる。
自分の弱みを見つけ、それを生きる糧にするのは単純なようでとても難しい。


よくこの本の感想を見ると「著者は美人なのに(自殺して)もったいない」という文章を見る。多くの人がこういうこと考えるのが普通なんだなと思うと嗚呼、やっぱり世の中ってつまんねえええって思う。
でも仕方が無い。世の中ってのは、そして自分自身もそんな考えを持っている。そんなもんだ。
20才女性→若い綺麗な女が死亡→哀しいね
ってイメージを持つのは当たり前。でも、もしも著者の写真が醜い女だったらどうだろう。そりゃ建前上、哀しいとは口にするかもしれないが、本音の部分ではちょっと嘲笑するかもしれない。それが人間だ。初対面で何も喋ったことない奴でも顔だけで「こいつ嫌い」ってなることだって絶対ある。それはしょうがないこと。世の中は外見至上主義だから。それを否定するには凄まじい労力がいると思う。
著者はわざとダテ眼鏡を掛けた。端正な顔立ちで、化粧をせず、眼鏡を掛けることで何かを成立させた。この行為は道化なのか、単に孤独の延長線上にある行為なのか。

眼鏡売場での鏡の中のその姿、顔はバサバサで不潔で眼鏡をかけた姿は滑稽そのものであった。

何もないのだ。何も起こらないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ。彼が部屋で静かな寝息をたてて眠っているだろうと思ったところで、一体それが何なのか。あるいは彼女といっしょに肉体を結び合っていたところで。もし私が彼といっしょに「燃える狐」の情感をたぎらせていたとしたら。