「私たちは、すべてが自分のためだけにある、完全に自由になれる、小さな、人目から隠された庵を確保しなければならない。そして、そこでは本当の自由と本質的な退却と孤独とを達成できる」
モンテーニュ


求めなくてはならないものは庵である。ストレスを感じずにのんびり過ごせる場所。そんな場所は幼少の頃なら沢山あった気がするが、今となっては自分の部屋ですら庵になってないのが現状だ。
休日を庵で過ごすため、まずは庵を見つけなければならない。庵といっても単に場所だけではない。場所、時間、人口密度、風の向き、光の加減など様々な条件が絡み合って庵になる。
例えば映画館。私が小学生の頃はまだシネマコンプレックスというものが地元に存在せず、寂れた感じの劇場が歓楽街にあって、でかでかとしたゴジラドラえもんのポスターが上映期間中に貼られており、色めきたったものだ。劇場内はまだ禁煙の風潮などない時代であったから、硬い椅子から妙に甘ったるいニコチン臭が漂ってきて、大人の臭いを感じながら、入場の際に貰える景品を無意識に指先で弄び、けれどもどこかのオヤジに怒鳴られないように、音を立てないよう弄び、ブリキのラビリンスに入り込んでいたものである。
上映が終了しても追い出されることもなく、同じ映画を続けさまに二度観ても咎められることもないという緩い状態であった。劇場を出ると、傍にある果物屋の匂いを感じて、景品を片手に帰路に着く。あれは確かに庵であった。
今、私はシネマコンプレックスにコンプレックスを抱いている。そもそもショッピングモールを潜り抜けなければ入り口に入れないという構造が主なのが気に喰わない。子供中心主義の風潮からか喚き声があらゆる所で聞こえる。映画施設の入り口にいくまでの人口密度、ショッピング的人種、光の加減は及第点には遠く及ばない。映画というのは気持ちが滅入っているときにこそ観に行きたいものであるが、こうした風に入り口が妙に女子供に媚びた感じであると入る気分が半減する。今は、外出すらし難い侘しい心境でもふらっと立ち寄れる寂れた映画館が無いのが現状である(ちなみに未だに駅前にあるエロシネマは女装した中年男などの珍客が客層の主である残念至極な珍所なだけであり、問題外である)。
映画館だけではない。牛丼屋、ラーメン店、飲み屋、あらゆる店が煌びやかなのである。寂れたものがどんどん消えていく。
現世の庵はなかなか探し難いのが現状である。