私も、もう二十四です

未来が見られれば安心するそうですが、やがて退屈し、失望するようです。私には未来も何も(この年で)現在すらも見えておりません。
草臥れた際は積極的に外へ出かけません。そんなときは近くの小型スーパーへ行く際も早朝や夕暮れを選んで行くものです。意を決して外へ飛び出せば飛び出したで目的を忘れてうろうろするあまり、挙動が不審になったりするのでございます。「犬も歩けば棒に当たる」と申しますが、警棒が不意に飛んでくるのでは、と冷や冷や致します。
しかしながら猫や犬、色帯びた看板などが蠢く外の世界は中とは違い、開放感が溢れているのでございます。一旦外に出れば内とは明らかに違う刺激が確実に入ってくるのです。
私は今日、服屋で安い服を吟味し、購入したりしておりました。「服」は黙って何も言いません。似合ってるかどうかは自分で決めなければならないのです。服は誰に着られても文句は言いません。人間はいつも物を連れて歩いております。いや、物が人間を連れて歩いているのかもしれません。物はいつだって所有者の滑稽さを嘲笑って密かに舌を出しているのではないか、と思うときがあります。
今日は立冬でございますが、太陽が強い熱と光を持ってして呆れるほどに真面目な顔をしております。対する私は年々純粋無垢から掛け離れております。これから冬を迎え、春を迎え、また暑い夏を迎えるにしても、忌々しい記憶は抜け切りませんし、特段、目的もございません。秋の夕暮れはとても涼しく、無味乾燥な生活を潤滑させようとしてくれているようにさえ思いますが、私は太陽のように勝ち誇ることもできませんし、鬱積した感情を取り払おうと醜く振りかざすだけなのです。ですが思考を完全に怠惰に投げ出してない点では、どうやらまだ余力は残っているかと思われます。私も、もう二十四です。