対称狂い

会社の面談にて、所長は“こんなことを聞くのは失礼かもしれないが”と前置きしながら(自分はその前置きだけで重大なことを述べられることを瞬時に察知致しました)、“軽い自閉症なのではないか”と述べられました。仕事に取り組む姿勢、物忘れが酷いことなどを指摘された後、確かにそう述べられました。自分は、特段、惨めな思いをするでもなく、あっさりとその台詞を受け入れました。
じへいしょう。自分は所長の質問に肯定したいとさえ思いました(世間には様々な病気や障害を抱えられている方がおります。医師の診断書というものがあれば、堂々とハンディキャップを得られることが出来、世間から同情を受けることができます。しかし、自分には病気や障害の診断も無く、同情を受ける立場ではないので、“怠け者”と思われたり、単に“病人の疑い”と揶揄される程度に留まっているだけなのです。とにかく自分は平均的な能力が無く、そんな自分を卑下して罪悪に悶えることで何も得られず、何も改善の策が浮かばないままなのです)。しかし、自分は所長の台詞を否定するしか選択肢がありませんので、空気が変容しないように心がけ、いかにもゆったり落ち着いた様子を演じて“自閉症ではないですねえ”と確かに否定しました。自分は密かに気違いと思われております。
週末の仕事帰り、部屋にい続ければ何もなく、陰々鬱々とすることを予期し、しかし、交友関係というものが全くなく(所長の面談では他に同期のカルロスと関係が希薄であることも指摘されました)、職場や地元に友達がおりませんので途方に暮れる寸前となりました。
ジョージ。浮かび上がってきた名はたびたび日記にも登場する大学時代の恩師である中年でした。自分は大学時代から引き続き、この中年男性しか尋ねる者がいないという状況が身に染みると、狼狽せざるを得ませんでした。
ジョージは相変わらず大学で講師をしながら、家庭教師のバイトをするという生活をしており、この日も午後八時まで家庭教師のバイトをし(後で聞いたところ、女子生徒に対する夜の教鞭を振るっていると述べられておりましたが、冗談かどうかは分かりません)、それが終わったら呑もうということになりました。
ある駅前の居酒屋にて待ち合わせをしました。会っていきなりジョージは乗っている自転車や身につけている革製のジャンパー、ジーンズが安い割りに性能が良いことを説明し、節制するときは節制し、使うときは使うという方針を掲げ、それを私に首肯させ、店内へと入りました。
居酒屋。個室の居心地の良い席で、メニュー表を見ると実に多種多彩なメニューがあり、ジョージは捲し立てるように注文をしていました。ビールで乾杯をし、続々と登場する刺身などの和食系統をとにかく食べ、やがてジョージのメタボ自慢が始まり、仕事のノウハウを懇々と述べ、私を時折説教し、ワインをがぶがぶ飲み、やがてその男は
「じゃあキャバクラに行こうか」
と述べました。
キャバクラ。自分はそのような異色な店にてんで世話になったことがなく、自発的に行くような場所でないことは確かでした。その日の自分は、他人の提案を否定する気力がなく(それに自分はマゾヒストであり、あらゆる場所であらゆる痛打をされることを密かに望んでいるようで、そんな気持ちもあってか)、あっさりジョージの意向を承諾しました。
結局、居酒屋で二人で1万円以上を飲み食いし、そしてキャバクラに突入することになりました。入り口にて呼び込みのボーイに従い入店し、ジョージは「VIP席頼むよ」と言いました。この色魔。
店内に入ると煌びやかな照明が空間を照らし、慌しく動き回るボーイに待機室に案内され、ジョージに「キャバ童の金輪際は薄めのウィスキーでいいだろう」(キャバ童=キャバクラ童貞)とアルコールを既に飲んでいる私を気遣ってそう指示し、ジョージはウィスキーをロックで頼みました(しかし、既にジョージの顔も既に赤くなっておりました)。周りを見渡すと蝶のようにひらひらとした衣装を身につけ、肌を露出させた色っぽい化粧の女性たちが笑みを浮かべながら中年男性と会話をしており、ぞっとしました。これもまた現世だ、これもまた現世だ。自分は数分後にあのような女性を真横に置き、一体何が出来るのかと思うと絶望に近いほどの失望感に襲われました。
「準備のご用意ができましたので〜」
ボーイがやってきましたので、ジョージのいう意味のVIP席(相席で喧騒が酷そうですが)に行きました。既に他の男たちが盛り上がっており、のろけた男たちが女性の肩に手を掛けたり、兎にも角にも楽しんでおられました。
自分。醜く動揺せざるを得ませんでした。いえ、確かに入店前から覚悟はしておりましたが、カラオケの怒号が会話そのものを大破壊しているという支離滅裂な席というまるで酷い席(ジョージがいうにはVIP席)で口下手な自分には何もできないこの状況ではもう死に体と化しておりました。
嬢がやってきました。髪型はやはり巻き髪にトップを盛った状態とし、メイクは当然濃い模様です。突然このような女性がやってきて一体何を喋ればいいというのでしょうか。他の客の怒号のカラオケを聞きながら、無言の行しか自分は行えませんでした。すかさず向かいの席で既にいちゃいちゃとしているジョージが「この男はキャバ童だから〜」と突っ込んできました。
「へぇ〜そうなんだ。なんかうたぅ〜?」
嬢の妙な甘ったるいような声が聞こえました。いや、世間的には妙ではないのでしょうが、いえ、あ、いや、とにかく嬢が言うには何かを歌えという意であることは間違いなく、とにかく歌いました。そして
「もっと歌っちゃいなよ〜」
いかにも会話が続かないからカラオケモードに突入させようとしていたのでしょうが、自分はカラオケにもほとんど興味が無く、場をしらけさせないような歌を選曲できませんので
「あんまり歌興味ないんですよ」といい、自分、この場において“無”を作りに掛かりました。
「この曲は興味ある?」
嬢がカラオケディスプレイを見ながら随時、そのようなことを言ってきますが、聴いたことが無いミュージシャンばかりで、自分はいかにも無知で、この夜の店でもどうしようもない罪悪に悶えることになりました。それから自分はなんとしてでも歌わないとと、果てる思いでようやく見つけた歌える曲で精魂を込めて歌い、それに盛り上がる他の客を眺めていると、意識がぼんやりとし、気が付くと、ジョージが立ち上がって嬢の腰に手を回してくるくるっと抱きながら歌っていました。
そのうち、嬢が他に指名されたりし、コロコロと嬢が変わるのですが、ジョージと喋っていると、最初にジョージに付いていた嬢が自分の在籍していた大学の系統の短大の1年生であることが発覚し、18,19歳であまりに大人っぽいことが分かり、感嘆しました。このことに大学教員であるジョージは特に動揺もせず、そして自分は己の年齢不相応な稚拙さを露呈し続けていることに狼狽しました。やがて時間が来て、会計を済ませ、嬢やボーイに見送られて店を出ました。せわしない店とはいえ、あの陰々とした職場の整備工場を思い出すと、確かにキャバクラというのは光輝くものがあることを感じざる得ませんでした。店を出るとジョージは行きずりのヒゲを蓄えた怪しい男に声を掛けて適当な会話をしていました。そのぶっきらぼうな会話を終えると私に声を掛け、その夜の総括が始まり、今後の激励をされて「私はもう一軒行くから」と夜の街へと消え去りました。“絶望するな。では、失敬”とでも言いたげなジョージの背中を見ながら、自分は帰りました。