虚仮生活(三)

「通用しないから行くんですよ」 
三浦知良セリエAジェノアに移籍する際)

 どうもいつも草臥れている様子の社会人の金輪は、あらゆる場所の機械の管理・点検をしているため、各々の機械の鍵を掛けたか掛けてないかという煩悩に常に思い悩まされ、何度も確認してしまう具合である。これは職業病といってもよいかもしれない。そんな彼もこの春、三年目となり、会社内に後輩が増え続けているようである。そこで早くも彼は入社当時のことを振り返ろうと手記をしたためた次第である(尤も物忘れが激しい彼は、さっさと書かなければ、当時の記憶が忘却の彼方へ行ってしまうのではないかと危惧しているために書き出す次第である)。

手記(三)

 タクシーの暗い車内に同じ支社の同期四人が乗っている。目的地は会社の研修施設であり、既に他の支社の人間を研修施設に乗せていったと話すタクシー運転手は「研修施設から近くのコンビニまでも結構距離があるよ」などと馴染んだ様子で話をしながら運転を続ける。街灯の少ない道をひたすら走り、最寄り駅から約15分ほどで施設に到着する。正門から玄関までの距離が程遠く、やっとのことで玄関前に着き、運転手に礼を言い、降り、施設内に入る。その日朝の入社式を終えて昼食を食べてすぐに出発し、数時間掛けて闇に包まれた関東の果てまでやってきたため、四人は疲労困憊といった様子である。
 施設の寮に入るため、手続きを行う。あらゆる支社の人間が交流することを担おうとしているのか、同じ支社の者が同室にならないように区分された部屋割りを確認し、部屋に向かう。既に部屋前には同部屋人の信越地方の者の名刺が掲示されており、私もそれを見本に名刺を掲示し、入室する。五畳ほどの広さ、綺麗に整頓された荷物が片方のベッドの上に置かれており、シーツや毛布が手付かずのベッドの方に腰を下ろす。相手のジャイアンツの旧マスコットのジャビットを中心としたバスタオルがハンガーに掛かっているのがやたら目に付く。部屋の中にはテレビはもちろん、洗面もない、ベッドと小さな机がある程度。便所や洗面は外にある。
 腹が減ったので夕食を食べに食堂に出向く。既に同支社の者も食堂に来ており、各々おかずを取り、巨大炊飯ジャーから白飯をよそい、鍋から味噌汁を掬う。同支社以外の者は誰もおらず、ようやくといった感じで飯をかっ食らってる時、その日最初の安堵感を覚える。それもつかの間片付けの際、食堂のおやじに怒られる。米粒を残すな、百姓に悪いだろ。尤もなことである。
 食堂で同支社の人間と別れ、各々部屋に戻る。戻ったのが夜九時くらいで、ぼーっとして十一時になるとようやくジャビットのバスタオルの所持者が戻ってきた。「どうもはじめまして」「よろしくお願いします」。とりあえず一週間以上同部屋になるわけなので、当たり障りのない挨拶をする。そうすると元気に返される。同部屋民の風貌はラッシャー板前のように陽気でガタイがよく、どうにも信越の連中は初日から酒を呑み交わしていたらしく、ラッシャーの顔にも酒の火照りが確認される。早朝五時にランニングするからもう寝るよ、などと信じられないようなことを述べるので、ではこちらもさっさと寝ようと、そうですかと消灯し、就寝。
 起床は七時。ラッシャーは既に早朝走を終えてどっかの部屋に行っている。寮中に小鳥のさえずりが流れ、歯を磨き、朝食を食べる。ラジオ体操、朝礼。八時五十分開講式。四十人ほどの各支社の新入社員が長机の前のパイプ椅子に座る。様々な人間の後頭部を見ていると、茶髪もいるし、坊主もいる。全員が男であり、全員がツナギ姿、なかなかの壮観である。
 研修所長の○○です、君達は本日より○○グループの一員として当所において研修を受けていただきます。
 この言葉を聞き、式中、今までの人生を振り返らざるを得なくなった。尤も振り返ったところでその時々に接したり見たりした女子が頭に浮かび続けるだけで、あの女子達は今どこでどうしてんだろうという思考が永延と、いかにも男だらけの空間に投げ出されたことを嘆くように反芻せざるを得なかった具合である。
−手記(四)に続く