晩夏の伝達

今日まで夏休みの学生が多いらしい。
今年はことのほか夏休み終わりの若者の自殺を防ぎたいのか、著名人がやたらと励ましらしきメッセージを出している。
私自身いじめ云々抜きにしても40日ぶりに学校に行くというのは精神的にエネルギーを使った覚えがある。
自由研究の工作が被ってたり、クラスの真ん中から聞こえてくるリア充の夏休みのおみやげ話(当時、リア充なんて言葉はなかったが)が厭なもんだったが、一番はとにかく教室そのものに行きたくないのだ。

 夏休みが終わり、またクラスの隅っこに佇む陰キャラを演じ続けなければならない、陽気なクラスメートが急に声を掛けてくれたら違和感のないように返答しなくてはならない、体育の体操をうまくこなさきゃからかわれる、給食で苦手なものを食べなければ休めない。今思えば小さな重圧も当時は大きな重圧だった。
 小学生のときは体内時計の針の進みが遅いからか、自分は永延にこのまま小学生やってんのかな、と錯覚したことがある。だからこそクラスに居場所がなければ悩むし、仲間がいなけりゃ絶望的になるのだ。
 
 夏休み明けの朝。
 教室に行くと髪を切ったり、日に焼けたクラスメートの談笑が眩しく映る、その中を掻い潜って自分の席を思いだし、着席をする。誰とも喋らずに夏休みの宿題のドリルを確かめる。確かめる必要がないほど家で確認したことは分かっているのだが、久々に味わう教室の空気にいたたまれず、何かをせざるをえない。たった一言、たった一言誰かと声を交わせばそれで終わるような違和感を、永延に持ち続けた小学生時代。

 あの頃の私に云いたい言葉は、「違和感を抱えながら生きろ」。
 嫌いな食べ物もなく、運動も勉強もできて友達が多い他人をいちいち羨まず、自分の嫌いな食べ物や運動や勉強のできなさや友達が少ないことに誇りを持ってほしい。自分の存在に疑問点を持つことは普通のことだ。死にたくなることも普通のことだ。危ないと思ったら逃げることが普通のことだ。
 
 夏休み明けの学校が厭なことは普通のことだ。