ひとりでサーキット

小学五年の頃、ミニ四駆が流行っており、自分もミニ四駆を買い漁って楽しんでいた。だが、当時から遊び友達に恵まれず、ある二人の人と仲は良かったものの、その中にはミニ四駆が好きな友達がいなかった。自分にはミニ四駆を語る友達もいなければ勝負する友達もいない。悲しい思いをしていた。一人でミニ四駆を家の廊下で走らせているうちに空しくなっていた。そんなとき、おもちゃ屋で家用のサーキットを目にした。「なんとかサーキットでミニ四駆を走らせたいな」。そんな思いが僕にはあった。


三歳の頃、母方の祖母の家のテレビの前で正座していたのが僕にとって一番古い記憶だ。
当時は祖母のことを祖母と認識しておらず、血が繋がっているとかそういうことも理解していなかったので三つ子の頃から人見知りが激しい自分は祖母の家で恐縮して正座をしていた。
煮物の匂い、木の古い匂いが自分の感じ取る祖母の家の特徴で、古めかしいテレビから「笑点」が流れていたことが今でも思い出される。
正月には必ずお年玉を貰い、そのお金でおもちゃなんかを買ってもらったりしていたわけだ。スーパーファミコンのソフトが多かったと思う。かわいいスリッパなんかも貰ったりもした。とにかくばあちゃんは優しくて兄と僕のためにあらゆることをしてくれていた。それは自分で気づいていないこともたくさんあると思う。
でもばあちゃんも怒るときは怒ってきた。ある夕食時、食べ物を残したとき、酷く叱り付けられた記憶がある。そのときは震えながら泣きじゃくって、いつも優しいばあちゃんが怒ってきたことがショックでたまらなくて立ち直るのにも時間が掛かった。
性格上、ばあちゃんと会うのは照れる部分があった。小学校も高学年になると一緒にいるのがおっくうでばあちゃんが家に来たときは僕は部屋で静まっていた。
僕とばあちゃんはろくに会話もせずに、ばあちゃんは自分の家に帰っていった。母から『ばあちゃんが「勉強がんばれ」って言ってたよ』という風に伝言されることでばあちゃんとの繋がりを何とか保っていた。
小学五年になって暑さも和らいだ頃、ばあちゃんが入院している病院に行ったら笑顔で「お金あげるから好きなもの買うんだよ」とビニール袋に大量の五百円玉が入ったものをくれた。それがばあちゃんとの最期だった。
ずっしりとビニール袋に入れられた大量の五百円玉を手に入れた僕は、母と一緒におもちゃ屋に行き、サーキットを買ってもらった。
サーキットを組み立て、ミニ四駆を走らせる。爽快な気分だった。しかし、ミニ四駆をする友達がおらず、やはりひとりでミニ四駆を走らせていた。でもそれで十分満足だった。
秋の終わり頃、学校から家に帰ってきたらばあちゃんが死んだことを知らされた。
その日、初めてお通夜というものに出た。ばあちゃんの亡くなった顔を棺おけから覗いたとき、込み上げるものがあったが、とことん照れ屋な自分は泣き顔を家族に見られたくないから、思い切り口を閉じて泣かぬように、顔を見られないに注意を払った。
数日が経ち、ばあちゃんとの最期はあの大量の五百円玉を貰ったときだった、と思い出した。
僕はそれから余計にミニ四駆をサーキットで走らせるようにした。もうミニ四駆に飽きていることを自分では分かっていても僕はいつまでもいつまでもミニ四駆をサーキットで走らせ続けた。