擦り切れ掠れ切れ

14年前はオウム真理教サリンテロがあった日だ。東京メトロ霞ヶ関駅に先月行ったけど、あそこは学のよさ気な風情だらけという印象だから、今の時代、宗教的観念でなく劣等感を持った人間が屈折した目的でテロを起こしても何ら不思議ではない。
結局、学のある若者が何でカルト宗教に走ったのか、という理由をあまり掘らずにほったらかしにして、弾圧して無理やり解決させた風になってるのが何とも薄気味悪いね。
「風化」って言葉を世間は使いたがるけど、実によくできた免罪符的な言葉だと思う。風化もくそもなくて人間、自分以外に結局、無関心ですよ。どんな殺人事件、凄惨なことが赤の他人に起きようともあっさり立ち直る。そういうDNAが仕組まれてるわけだ。何かに無関心でいようとも自分に迷惑をかけるわけではない。とある物事に無関心でも社会の一員としていられる。それは至極、当然なことだろう。
ネット社会、特に2ちゃんねるでは凶悪犯罪者を中傷する人間が多いけども、その中でも最も多いといえるコンクリ詰め事件の犯人に対しても散々、誹謗中傷を垂れ流しつつも、殺しに行くこともなければ、手を出すことさえ誰もしてない模様である。それは結局は凶悪犯罪者に対しては無関心で、自分の私利私欲に関心があるからだ。
誰も救ってくれるわけがない。自分は自分しか救えないとつくづく思う。