女性

中学くらいからだろうか、朝、目を覚ます時点で頭に「(また現実か、、)」といったようなしらじらしい思考回路が流れるようになった。たまに朝っぱらから自慰をするのは「朝」という現実を受け入れることが馬鹿馬鹿しくて自棄でやっている。朝から無理やり女性を意識する厭な心の持ち主。小学校低学年以前のようなあの爽やかな朝は到底迎えられそうにない。
若い女性が相手だと恐怖するという何とも難儀な性格の持ち主である。生理がアガった婆さん相手なら適当精神で乗り切れるのであるが、「若さ」に恐怖する性質が自分にはある。それは「活発」に恐怖するからであり、なぜ「活発」に恐怖するかといえば、自分はくたくたに疲れて疲れきっている男という「不活発」のポーズをとり続けているからだ。なぜそんなポーズを取るかといえば生きていることが虚しいからである。客観的に見るとなんと稚拙なダラシのない男かと思い、狼狽するが、根底から根付いている自身の人格をヒンシュクし続けても仕方あるまい。
外出している自分。厭なことに若年男性であることで私は頻繁に欲情するのである。小学生時分では女性に対してエロティックな感情を持つなど自分にはありえないと思い続けていたものだが、そんな意思はいつしか紙くずのように吹き飛び、今日も虚しく欲情し続けている。通行人の若い女性の脚を見る。顔を見たいという気持ちはあるも直視はできない。目が合ったことを考えると恐ろしいのである。自分の厭らしい目が合えばきっと女性はこう思うのである。「(気持ちが悪い。下品な男だ。この男と目が合って私はどうすればよいのか。恥ずかしいし、くだらない。若い女というだけで見ているのだろうか。オシャレとは結局、下品を通行するのであろうか。)」、「(この男は作業着を着ている。目が死んでいる。未経験そうな男だ。ここで私が笑ってあげたらこの男は元気を出すだろうか。いや、男は何をどう勘違いするか分からない。関わらないことが最善である。)」などと女性が考えていることを考えて想像する(想像というものが罪にならないことを自分は危惧している)。とかく粗暴な心情を女性に持たれることが自分の中で敗北なのであり、なるべく女性とは接触したくないのである。実際は生身の女性を腫れ物のように恐れる必要などない。それでいて自分は恐れる。恐れることで自分のスタンスを維持している。なんとも破れかぶれなスタンスだ。自分は酷く「繊細」である。いや「脆い」といった方がよいか。
昨晩の飲み屋の三十路女性ともなかなか目を合わせられなかった。煌びやかな衣装に身に纏い、髪型も目も眉も唇も整然と取り繕った綺麗な女性。女にも不潔があり、それでいて清潔があるのであろうが、未経験な自分には「清潔」さしか見えていない。「清潔」なイメージに飛び込むのはなんと憂鬱なことか。
当然、話をしなければならない。自分の話のネタは、目標もなく消極的な仕事生活のネタだけ。これでどうやって飲み交わせばいいのか。自分は苦悩した。たどたどしく単語を無理やり文節でつないだ仕事やカラオケの曲の話くらいしかしていなかったように思う。絶えず会話の波が押し寄せ、吐き気を伴う時間が流れる。それでいて女性が努めて楽しんでいる顔をする。しかしそれが本心であるわけがなく、褒めて頂いても何とも怪しげな「清潔」さとしか思えず、こうして他者の心を疑うという、自分自身の醜い心を「不潔」だと確信するだけで、自分は店の固い椅子でケツと心をクタクタにしただけでふらふらと帰路に着いた。こうしてさっさと寝て起きて、またしらじらしい思考回路が流れて動き出すわけだ。