虚仮生活(五)

「くるしい、また一面みじめな職業だとさえ考えている。けれども、この職業以外に、僕の出来そうなものはちょっと考えつかないのである。牛乳配達には、自信がないのだ」 
太宰治 (『正義と微笑』より)

 僕は(一人称に「僕」を遣うのは久方ぶりな気がする)、高校時代にとある実体験から顔を陰鬱にする癖がへばり付いてからというものの、力をほんの少し抜いただけですぐ暗い表情になってしまう。そのことを誰かに指摘されると、少し落ち込む。そうして仕方なく無理やり気合を入れて目力を入れる。悲劇さえない生活に悲劇ぶってどうすんだ。
 唐突だが、十九歳の夏、初めて肉体労働というものをしたときの話を書く。

手記(五)

 十九歳の余暇、学生をやっていたわけだけどもさほど勉学意欲もない。友人は同じ学校の偏屈な引篭もり男が一人だけ。私は基本的に一人で、さてどうしたものかと毎日を送っており、そうして仕事がしたくなった。
 とある初夏の朝五時、登録していたバッドウィル八王子支店(仮名)に、する意味があるのかないのか分からないが、出発コールをする。今回やる業務は引越し作業である。正直やりたくは無かったが、何事も経験だ、と部屋を飛び出した具合である。
 早朝、ガラガラの中央線(当時はまだオレンジ色の)に乗っていると、座席のクッションから漂う有機質な臭いが自分の虚しい心に混じりあって来る。
 四十分ほどで八王子駅に着くと、待ち合わせの時間までまだ少しあるので「松屋」で朝食を取ることにする。食欲が無いが、肉体労働を控えているだけに食べざるを得ない。無機質な食券機から牛丼並の食券を買い、店員に出し、日の出間もない牛丼チェーン店。ガラス越しに赤白い光が照らされる店内、味噌汁付きの、牛丼並がやってくる。レトルトな味を一人で啜りこむ。
 食べ終えると、後に通り魔事件が起きる駅ビルを通過し、会社からの指示通りとある銀行の前で、同じ短期バイトの二人を待つ。集合時間の七時頃になると今思えば滑稽極まりない派遣会社用のTシャツを着た、自分と近い年齢の男が一人とやはりTシャツを着た中年のおやじがやってくる(Tシャツは五百円で自分も買わされ、この日も強迫的に着こなしていた。その後、引っ越すときに破り捨てることとなる)。
 三人は初対面なのであるが、日頃気弱が高じている私は、最初一言二言話したのだが、会話の気流に溶け込めず、ここでも二人の会話を耳にするだけで、無言で運送会社の方へと向かう。
 受付の爺の所で紙に名前を書いて、判子を押して、出勤したぞ、といった証拠を提出する。その後、ロッカーで作業着のサイズを選び、着替えるのだが、当時はこの「作業着」を着るという所作そのものに異常に陰鬱になった具合である。そうしてトラックの停車場所のある外に出る。
 そこでは、シワだらけの金髪中年、いかついデヴ、野ざらしの髪型をした危ない目をした肌が浅黒い奴、などと異様な雰囲気のする男たちが数十人屯しているのであるが、共通するのは煙草を呑みこむようにスパスパと吸っていることである。
 しばらくすると多数の班に分けられ、自分と集合場所で会ったおやじは同じ班。他の班員は運送会社で働いているらしき野卑じみた風体の男が五人ほど。作業は開始される。最初は輸送されてきたコンテナの荷物を引越しトラックの荷台に載せるという作業をする具合だ。
 開口一番、ハゲ長髪のキチガイおっさん(以下キチオと記す)がどこへとなく「酒だ!鹿児島の酒が入ってるじゃねえか!」と客の荷物に対して、小僧が棒を振り回してはしゃぐようなテンションで声を上げている。後にも「きたねえ荷物!」「ざけんなよ何だこれ!」などと荷物の寸評みたいなことをキチオは口々にするのだが、キチオほどではないが他の運送社員も客の荷物に対して思慮無く寸評するほどで、成る程、引越し屋ってのはこうして他人の荷物に対して卑しい感情を持ったりするのが普通なのだなと思った具合である。
 肝心の力仕事であるが日頃もやしが高じている私は、タンスなどをキチオと一緒に運ぶときに案の定、力を抜いてしまい、「てめえなんで力抜くんだ!?バカにしてんじゃねえ!」と罵声を浴びせられる。
 単調に物を運び、乳酸を呼び起こし、最初の作業だけで疲労困憊となってしまった。
 そうして引越しトラックに乗って客のマンションへ行くこととなる。私は金髪デヴが運転するトラックに乗ることなり、運転席が金髪デヴ、助手席がキチオ、真ん中に私が座る。二人とも私には目もくれず、煙草を呼吸するように吸い続け、
「あそこでねえよ」とパチンコ、「あのバカ、また三万すったよ」と競輪、「3Pは高かった」と風俗、「あいつ奥地へ逃げたんだとさ」と借金に追われる友人の話なんかをエンドレスにし続ける。紛れも無い底辺トーク。中でもエロ雑誌の付録に対して嬉々と話す様は脳が痛むほど無様だった。
 そうして国立だったかどこかの駅前のマンションに到着する。マンションの駐車場にはトラックが入らない。仕方なく駅近くにトラックを停め、そこから台車で荷物を運ぶという過酷な作業が開始される。駅前には若者のカップルが爽爽と歩いており、ボロい作業着を着た当時いない歴年齢の自分は卑屈にならざるを得ない。    
 トラックからマンションのエレベーターに荷物を持って行き、客の部屋の階へと運ぶのであるが、自分は最初トラックからエレベーターに運ぶ橋渡し的役割をしたのだがゴロロン!ゴロロロン!といった異常に不安定な台車使いで金髪デヴや白髪頭の男に「なにやってんだ!てめえ!小学生か!」と怒鳴り散らされる。
 で、あまりにもいかつい顔をした角刈りデヴがエレベーターから客の部屋へ運ぶ役割を担っており、そいつにふらふらと荷物を渡す際「チンタラしてんじゃねえよ早くしろや!」や「みっともねえな、こんなものも運べねえのかよどけよ!」などと怒鳴られる。マンションの上から飛び降りようかという思いも脳裏に掠めた。結局、ここでの作業は三時間掛かった。
 その後、またトラックで会社に戻り、昼食にパン1個だけ食べ、どうも午前中の仕事ぶりで見限られたのか、トラックの整理と会社控え室の掃除を命じられただけで午後は現場へは行かされなかった。結局、八時から十六時まで働き、給料は六〇〇〇円ほどが後払いされることとなった。
 そうして土砂降りの雨の中、「(てめえらそのうちアゴで遣ってやるよバカたれが!)」と呪詛しながら帰路に着いたという具合である(数年後、その日本○運の総合職を受けたのだが、結局最終面接で落ちた)。  
 この経験で私は、学歴社会の敗者になる者は体を鍛えてなければ話にならない、といったことを肌に感じた次第である。