エンプティ・エンプティ (19,016字)

(一)

 聖夜。十二月二十四日の夜だけは「聖夜」というらしい。同じ一夜でも、人によって聖なる夜でもあれば、虚ろな夜でもある。聖なる夜といえば温室にセックスというイメージだが、虚ろな夜といえば虚室にマスターベーションというイメージ。だがたとえその夜が聖だろうが虚だろうが、私はただ一夜に対して恍惚を得る方法を欲しなければならない。恍惚を得る方法を知らない鈍感・無知であれば夜は決して熱を伴わず、単に朝の前の事象に過ぎないものとなる。
 良い思い出を引っ張り出そうとしても、それに付随するうっすらとした厭な感情、厭な感触が、思い出の真後ろにぴたりとコバンザメのように付いてくるときがある。そうして時にはそのコバンザメが思い出に噛み付いてくるため、それならば、と良い思い出だというのに一切引っ張り出さないように封印してしまうことがよくある。では逆に厭な思い出を引っ張りだそうとするとどうなるだろう。忘れていた良い感情、良い感触なんかが可愛らしいシャチのように付いてくることも案外あるのかもしれない。だったら思い出してみるべきだ。


 結局、これまでの人生において最も恍惚を得た出来事は中学三年の高校入試の合格発表の時のようだ。入試から一週間後の、時間は正午過ぎだ。
 正午前、高校の校庭に到着して、正午に入試の合格発表のボードが張り出されて、群がる人に埋もれながら自分の番号を探して、見つけて、確認して、それから余韻に浸って一分が経過するくらいまでの間に恍惚を得たかと思われる。しかしながらその時の恍惚が何かの前借りであったかのように高校生活では堕落を極めてしまうこととなってしまう。

(二)

 大塚製薬の「カロリーメイト」、ナリスアップ コスメティックス社の「ぐーぴたっ」、商品名は忘れたが購買の前にある自販機の紙パックの寒天入りマンゴージュースなどを隠れて常食、常飲し、小林製薬のガスピタン、ビオフェルミンツムラの桂枝加芍薬大黄湯を常用していた。
 少ない休み時間でも誰かに見られないようあえて遠くの後架へと足早に、頻繁に通い続ける日々。四方の席と数十センチしか離れていない教室の密着空間において、腹部の状態が少しでも楽になるように体を前に後ろに傾け、のた打ち回る日々。思いも虚しく腹部のガスは毎日暴れだす。基本的に午前中は絶え間なく腹が鳴りそうになり、腹を満たした午後は腸内のガスが外への解放を求め、衝動を起こす。毎日、まるで風船にでもなったかのような腸の状態に辟易して、針で腸を刺してガスを発散させる妄想を幾度となくし(実際にそんなことしたら失血性ショックで死ぬだろうけど)、早く授業時間が終わることをひたすらに願いながらスチール製の椅子と机にへばり付いて体勢を変化させ続ける。それはあまりに険しく、虚しい時間であった。
 十五歳から十八歳の青春期は常にそうした過敏性腸症候群(以下、IBSと表記)と交わっていた。この時期、友達が少ないとか勉強ができないとかそんなことはどうでもよいと思えるほどIBSに姦された生活に悶え尽くしていた。そのストレスにより、髪に白髪が増え、肌は荒れ、ガスに対する神経症的な状態になると姿勢もうつ伏せが増えて猫背となり、現実逃避をするために目を半開きにした状態で授業を受けていたために目力が格段に弱まった。体調が悪いときは胃腸の状態がさらにおかしくなり、そこから派生して自律神経も失調し、唾液が多量に出たり、ゲップが止まらなかったりする。まるで脳、全身の骨格、筋肉、細胞全てが不満を露にしているような状態だ。「おまえは勉強も運動もろくにできない、無趣味でヤンキーですらない。一体、この体をどうしたいんだ?」と絶え間なく身体に訴えられているようだった。
 症状を治すためにしたことは病院へ行くことだった。胃腸科、内科、精神科、心療内科、結局どこへ行っても治らなかった。酷い医者だと「そんなもの病気ではない(笑)」と一蹴してくる有様だ。他に医者からは「よく噛んで食べればいい」「運動すれば治る」「趣味をもてばいい」「精神力を強くするように」などとありきたりな返答が来るだけで、とりあえず胃腸に関する薬を処方されるのだが、薬を飲もうが、食べ物をよく噛もうが運動しようが趣味を持とうと試みようが治らなかった。
 そうして一日七時限を週五日、たまに土日に模試ありというフル回転の進学校生活に限界を何度も感じたものの(試験中、空ゲロが出そうな状態が終始続いて高校二年の冬の駿台模試では全科目偏差値二十台、学校最下位をマークするなど)、学校を辞めて大学検定で大学を目指すとか、定時制の学校へ転校するだとか、全国の病院を視野に探し回るほどの状況を変える気力は無かった。インターネットで自分の症状を検索してみると、こうした「頻繁に腹にガスが溜まる」症状を持ったIBSの人間は現代のストレス社会に意外と沢山存在するようである。自分の周りにはどう考えてもいなさそうなので驚いた。そしてそうした症状は周りの友達に公言して回れば気持ちが楽になるという話も書いてあった。しかしながら当時私には友人はいたにはいたものの、いずれもニヒルな種族であることもあってか相談すると自尊心が完膚なきまでに崩壊する気がして結局相談せず、孤独な闘いを選択することにした。独学で食生活(よく噛んで食べる、暴飲暴食を避ける、ガスを発する食べ物飲み物を避ける)、睡眠(夜更かしを避ける)、呼吸法(空気を呑まない)などを研究して有効そうなものを生活に取り入れるくらいのことはしていたが、あまり効果は無かった。テスト時には夏場でも朝起きて学校が終わるまで水を一滴も飲まないという無茶もした。水を飲むと、空気や水が腸内で激しく動き回るような感じになるので、一番静寂なテスト時間においては特に神経を使って飲まずにいたことも多かった。結局、神経を使わずに済むような、IBSに効果抜群な代物は何もなかった。
 教室の机に座っている時、自分の中ではIBSに関する不安が頭の中の九十パーセントを占めていた。目の前で行われている授業に関しては七パーセントほどの思考で太刀打ちしようとするも(残りの三パーセントは性的なことを考えてた。仕方あるまい)、どうしようもなく、高校一年の秋以降から所謂落ちこぼれに値する成績をキープし続けることとなってしまった。
 そうして誰にも弱音みたいなものを吐かず、意志薄弱なまま学校の机でじっとしていることもままならない生活を毎日繰り返していると「死んだほうがいい」という思いも少なからず思考を掠めつつあった。このIBS地獄からの脱却に「死」は確かに浮上したわけだけども、所詮高等学校の教室や受験会場の密着空間内でのみ悶えているのであって、それ以外の空間ではさほど苦にならない程度の身体の症状ではある。終始鬼門に位置する学校では「卒業」と云うゴール(安楽)が設定されているために、どんなに無様な態であってもがむしゃらにゴールを目指すことには意味があるように思えた。いや、思うしかなかった。そこにある敗北は「落第すること」である。もう一年、年下の連中と密着空間を共にし、苦汁を舐めるともなれば、それこそ「死」と思えるほどの『絶望』な展開であることは明白だ。そうして私は大学受験を後回しにしてとにかく現役での高校卒業を最大目標に位置づけて高校三年を闘うことになった。
 高校三年時、皆が部活を引退した辺りから急に教室の空気が重くなって、夏休みには近場の私立大学を借りて夏期講習が催されて、その講義中に隣の席で中学の同級生でもある元友人がなぜか二次元のエロ雑誌を見せびらかすという卑猥な所作を施してきて、なにやってんだと思ったり、何だこの二次元にモザイクする精神って?とか。俺は二次元に興味ないよ、ところで野球部が夏の大会ベスト8で甲子園が近いから球場応援で明日からの講習は延期か?俺? いや応援はいいです、だって、いやわかんないけど行きたくない。とかテレビで中継されて野球部かっけーなーとか羨望したり、でもやっぱ優勝候補に負けて、講習は永延と続いて八月なのに寒いくらいの日がある冷夏で終わって、夏休み明けに壊滅的な赤点のオンパレードで教師に呼び出され、「このままじゃ落第するぞ」などとお説教を喰らい、毎日毎日痛ましくてうんざりとしていて、学校ではもとより家に帰って勉強しても頭に入らない、暗黒だなあ、とにかく受験なぞどうでもよく、卒業のために赤点科目の底上げに努めるしかないと、自分をなんとか奮い立たせようと必死だった。八年も前のことなので、記憶が曖昧だが確か三十四点以下が赤点であり、各々の科目の一年間のテストの平均点数が三十五点以上ならば単位は貰える感じで(例えば前期三十三点で後期が三十七点ならば平均三十五点で単位取得となる)、それでも三十四点以下の場合は科目によっては追試や課題などの加味が残されていた。最後の学年末の期末試験を迎えるにあたって、それまで平均三十点中半と云うボーダーライン上にあった古典をかなり必死にやったことは覚えている。「教科書ガイド」と呼ばれる教科書の内容を解説したガイドブック的な本が一般書店に売られていたのでそれを購入した。学校の教師が「そんなもの使うな」と(何しろ教科書の解説が載っているので、授業をやる側としては商売上がったりである)かたくなに否定していたのだが、無視してそのガイドブックを熟読し、テストではその甲斐あって何とかなった記憶がある。平均三十五点以上を取るために学年末の冬場は毎日のように各科目の勘定をしながら期末試験を必死も必死で(その間も常に胃腸に気を遣いながら)なんとかこなし、一科目捨てることになったが(卒業に必要な単位を考えると全単位から一科目に相当する二単位は捨てられる計算になるので、担任の教師の担当である数三の科目を捨てた。数三においては年の平均が二十点台という壊滅的状態であり、そこから救済措置としてテストの点は一切関係無しに「教科書の内容を全て手書きでノートに写せば無条件に単位をやる」というリークされた情報を入手したので、安全牌ということで数三のテストについてはノーマークにして捨てていた。学年末試験が終わって卒業単位を見込めた時点で、数三の単位に関しては「なら断る」と云った具合で課題である教科書の膨大な内容を全て丸写すという飛鳥時代のB級印刷工じみた狂気課題に手をつけず単位を捨てることにした。そうなると担任からの心証はもともと相当悪かったのであるが、最後の最後でダメ押しのように最悪となる。クラスの順位はそれまで後に専門学校に進む内弁慶気質そうな長髪おたく君が最下位だったのだが、ブービーをキープし続けていた私が最終順位で無様にも最下位に転がり込んでしまった。何かその当時の担任教師は齢三十前後で背も高く、端正な顔立ちで、他の学年の女生徒にもモテた、国立大出の敏腕な色めいた若造といった具合で、常日頃運動部の会話能力みなぎった男女生徒を絶えず相手にしており、まるで受験勉強なぞお話にならないレベルのすたれきった会話能力皆無のガス男〔私〕を終始避けきった、まるで存在を黙殺している感じが漂っていた。どうにも担任における良い思い出は甚だ無いに等しいのである)、兎にも角にも卒業単位を揃えることができたときは恍惚には遠く及ばないが、三年間でもかなりほっとした瞬間ではある。

(三)

 卒業が安泰となると、進路について重点的に考えるようになる。とりあえず自身の程度である高校一年程度の学力があれば突破できそうな大学をリストアップする。そこで素直に四年制大学を選択しておけばよいものを、短期大学へ行ってから好きな大学に編入すればいい、と御目出度い考えの下、リストアップした中から短期大学を受けることに決定した具合である。教師などに勧められた地元の農業系の短期大学は、試験に不勉強の数二・B科目があり、そして少人数過ぎる大学で高校三年のクラスメートが推薦合格した時点で受ける気にならなかった。とにかく顔見知りがいない環境に行きたかった。そうした考えの基(小心が高じてたんだな)、関東の行ったことのない某県にある短期大学に照準を定めることになる。入試はあらゆる科目から好きな科目を二つ選択できたのだが、自分は数一と現代文の二つの科目を選ぶ。過去の入試のコピーをどこかの業者(書店)に金を叩いて入手する。高校一年レベルの入試ではあったが、傾向を掴むように過去問題をじっくり勉強した記憶がある。
 そうして入試を受けに飛行機で羽田に行き、そこからモノレールで浜松町へ行き、山手線で新宿へ行き、特急に乗り換え、ようやく学校の最寄り駅に着くとあまりに陳腐な雰囲気に唖然としたものである。まず、駅がイメージ以上にこじんまりしている。駅の前の横断用の信号機が青になると異様に昭和中期じみたメロディーが流れて、一瞬目眩を覚えて立ちすくむ。何か未来ではなく過去に向かって横断しているかのような逆行の感覚に陥る。そして歩いて下見のために短期大学に到着すると、高校生が近くを歩いている。併設されている附属高校の生徒のようだが、異様にチャラチャラしている。ダボパンに髪を茶色く染めた男子生徒、超ミニスカートにメイクを施した女子生徒が相場だが、彼らにはどこか垢抜けし切れてないカッペの物哀しさが付き纏っている。こちらも人のことを言えない哀しいカッペなので、もしかしたらこれからよろしくと適当に目を合わせようかと思ったが、厭な予感がして外す(後に附属高校の窓から見える位置にあるベランダのアパートに住む。ベランダで洗濯物を干していると「おーいそこで干してる人!(笑)」などと附属の生徒がチャラけた声を掛けて嘲笑してくる具合である。しかしながら「私は洗濯物を干すという極めて尋常な生活態度を示しているに過ぎないのに嘲笑をするな!」と叫ぶことはせず、おそらく叫んでいれば色餓鬼どもの格好の標的になるのはまず間違いないので、無視するというありきたりな態度を示したのである。しかし何かベランダでの所作を色餓鬼共に見られているというのがどうにも居心地が悪くて、学校が近いのは通うにはいいのだが、あまりに近すぎるとこのような阿呆な副産物が付いて周ることを身をもって体感したわけで、それ以外にもあらゆる騒音があって気に病み続けたりしたのではあるが、まあまあ、それはまた別の話)。短期大学には付属高校の生徒も何人か進学しており、短期大学も高校も同程度の偏差値だと分かる。そうして自身の偏差値がそのチャラチャラ程度まで堕ちたということにおいおい気づきだすと、かなりの屈辱を感じたものであるが、そんな無駄なプライドを持つ自分がまた嫌になる。
 下見を終えると、駅近くの寂れた民宿で一夜を過ごす。翌日、自身が通う高校のような賢い面々というものがあまり見られない面々で埋まる短期大学の受験会場にて、やはり胃腸に緊張を含みながら、何とか試験をやり遂げる。合格率は倍率一.四倍程度であったが、発表まで震えながら待っていた記憶がある。そうして関東の文科系の短期大学に進学した具合である。その大学を選んだ結局の理由は自分の高校から過去に誰も行っていないということと、自分の学力に合っていること、学費が安いことであった。
 その後、短期大学生活を二年間過ごす。単位を取り、短期バイトで罵倒され、部屋で悶々とし、編入試験に落ち続け、就職活動なぞ皆無であったので、進路も決まらず卒業をする。この二年間もいろいろあったのだが、結局は恍惚とは無縁の生活を送っていた。

(四)

 短期大学を卒業してフリーターになってからというもの、急に引け目を感じ出したと云うか、所詮自分は人並み以下と卑下せざるを得なかった具合である。日頃、奇の衒いが高じているように思える私だが、もともとはそうではない。もともと私は、恍惚を得て入学した進学校の高校から相応の四年制国公立大学に入学し、そこからまた相応の公務員・会社員になるという、安定的な生き方に羨望を抱き、その生き方をこなす自分に相応の誇りを持っていたいタイプの人間だったのだ。だが、先述の高校生活で、学力は覿面に低下し、短大で心機一転もならず、そうして劣等を抱え込みながらフリーターまで成り下がった具合である。
 現状を嘆いても致し方あるまい。まずはバイト探しである。物事を深く考えない私は新聞の折り込み広告に入っていたラーメンチェーン店のオープニングスタッフ募集の要項を見てすぐに履歴書を書き、連絡をして面接を受けることになる。数日後、とある施設に面接に行って「四月からは特にフリーターです」とわけのわからぬことを口走ってしまったが面接官の店長らしき人物がこいつは牛馬の如く使えるな、とでも考えたような安堵した顔を表し、「じゃあこの書類を書いて○○日までに出して」と採用が決定したかのような台詞を発してくるので「はあ」と流れに沿って採用された具合である。
 さらに数日後、研修が某施設で行われたのであるが、これがきつかったことは覚えている。なにやら数人の社員が登場すると、大声で「ようし、これからマナーやルールを学ぶぞ!」といった風に、もともと地味であったであろう人たちが数年の社会経験を経て得たような工業製品的なハイテンションで終始進めるもんだからいちいち疲れたもんだ。
 最初に自己紹介やら他人と雑談形式で自己紹介しあうみたいなことをやり(国立大の新一年生と組まされて歪んだ思いに駆られたり)、その後、「いらっしゃいませ!」と姿勢を作ってひたすらに連呼をさせられてこんな馬鹿でかい声で常々接客したらゲロでも吐くんじゃないか。一人ずつ順番に挨拶やらなにやらの声だしの指導を受けるのだが、私の場合、接客が初めてで卓球部より激しい運動部にも所属したこともないので、震えながら台詞を発すると「ぃらっしゃせ↓」になってしまって酷く陰気な風になってしまったものだ。そうすると「はっきりした挨拶をしないとお客様は不安になってしまいます」とかなめやがってくそが!最近は何でもかんでも客を過保護にしすぎだ!野放しにしとけ!大体、うるせえ接客のラーメン屋なんぞ自分は行きたいと思わんぜ。客はラーメンを食いに行くだけであって、馬鹿でかい挨拶を聞きに行っているわけではない。そこんとこよろしくだ馬鹿たれめが。などと頭の中で悪態を付くものの、何事も初めは辛抱せねばならず、忍耐なくして勝利はないのである。黙って従うしかない。そうして朝礼の大声による社訓復唱、コップの出し方、注文のとり方、レジ操作、札の数え方、提供の仕方などなど研修は永延と続く。めんどくせえ!おい、サービス業ってのはラーメン屋ってのはこんなに面倒なものなのか。マニュアルが多すぎる。しかし年下の高校生バイトも懸命にやっている以上は弱音は吐けまい!いよいよラーメン店がオープンしたぞ!
 基本的に内向的な人間だと公言して回った覚えはなくても、指導する人間と云うのは咄嗟に自分と云う人間の雰囲気で内向的人間と判断するらしくて、私はホールではなく、ほとんど厨房に回される扱いとなった。厨房では主にラーメン以外のサイドメニュー作りに従事する運びである。餃子を焼き、ライスをよそい、おにぎり、炒飯を作る。より正確でよりスピーディーな所作を求められる具合である。また柔軟性も求められる。基本的に社員がシャアシャア!と麺の湯を切ってラーメン作りに勤しんでいるのであるが、餃子ライス担当としては、ラーメンと餃子を頼んだ客に対して両方の商品を同時に提供するべく、社員のラーメンが出来上がる状態を予測して餃子を完成させるという阿吽の呼吸も要求されるのである。
 また、客の少ない時間帯は人件費を浮かすために私がホールに出て社員が麺とサイドメニュー兼用することもしばしばあった。客にへりくだって注文をただ聞くだけなら割り切れていたのだが、マニュアルで注文時に「餃子はいかがですか?」という催促する台詞をどうしても言わなければならないことがどうも苦手であった。一言で言えば押し付けである。見るからにしてラーメン一杯だけ食いにきた安直そうな客に「餃子はいかかですか?」と聞いても訝しげな表情で「いらね」と応えられるのが関の山である。百人中一人くらいの割合で「じゃあ餃子も」という客がいたにはいたのだが、その効果のほどは大して感じられず、私は常々「(こんな押し付け台詞を発するのは極めて遺憾であるが、言わないとシャアシャア!と湯を切っている社員に切れたナイフのような視線を投げかけられ注意を促されるから已むを得ず言うみたいな感じで)餃子はいかかですか?」と無理やり唱え続けたものである。
 バイトも経験を経るとラーメン担当になったりするのであるが、不器用が高じている私は結局、緊急時以外ではシャアシャア!と湯を切るラーメン担当には最後までならなかった運びである。

(五)

 その後、紆余曲折を経てフリーターを一年で卒業し、暴君大学(仮名)という地元の文科系の私立大学に三年次編入をする。
 大学に編入した理由は新卒の方が就職が有利だから。本当にそれだけで学問に対する意識がまるでなかった。それでも論文と面接で試験を通ってしまったのだから仕方が無い。今、情熱的に学問に勤しんでいる学生たちの生き様をまざまざと見せられると、本当に感心はするものの、自分が見習おうとは思わない。学生時代に勉強をしておかなかったことに対する悔恨みたいなものもない。それでも高校時代に遡れば勉強をする価値を見出せない自分にかなり焦っていた気がする。焦って図書館で山田詠美の「僕は勉強ができない」なんかをタイトルで借りて読んだのだけれど、さっぱり共感できず(ショット・バーで働く年上の桃子と熱愛する男子高校生とはなにごとか!)、嗚呼、勉強って何なんだろうと悩んでいたことは確かだ。死んだら知識なんて荼毘に付されて一切合切なくなるじゃない?でも勉強しなかったら死ぬまでの過程がきつくなるんだろうな。短期バイトでの引越しバイトのときのおっさんみたいに酒・煙草、競馬・パチンコ、エロくらいしか興味が持てない中年の性病持ちの野卑なおっさんになるってことならそれは嫌だ、勉強をしなくちゃと思うけど、そんな消去法的な理由で勉強をしなくちゃ精神が長続きするはずもなく、もはや就職のための手段としての学生生活二年間を過ごすことになる。

(六)

 暴君大学に三年次編入して、一週間ほどで辞めたくなって憔悴してハローワークで求人を検索していた。既卒で大した就職先がないから奨学金を借りたとはいえ、バイト代じゃ足りず、親の金で大学生になったというのに酷い体たらくだね。行きずりの百貫デヴに平手打ちされても文句言えないよ。
 辞めたい理由はゼミナールに入るのが嫌で。ゼミナールに入るのが必須で既に三年生は二年の終わりの時にクラス分けがされていたようで、編入生は後から追加と云う、ラーメン店でいう「じゃあ餃子も」みたいな形で新参しなければいけないわけである。うん、恥ずかしながらそれが嫌だったの。小学校の時でも朝から病院行って二時限から途中参加するみたいな形のときは何か暗夜を歩く怯えきった心境で教室に向かったものだ。そんな調子で暗夜行路は嫌だな、辞めたいな、と人生を舐めきったことを考えてしまって。これは、編入するという意識が足らなかったことを表してるね。
 でもなんやかんやでゼミナールの選抜のために胸を焦がしながら面接に出向いて、なんとか村中先生(仮名)に定員一杯のゼミに入れてもらってあの時は有難かった。
 同学年の友達はできなかった。今でもメールで稀にやり取りする宅男(仮名)という同じく編入生だった知り合いが一人いるけど、彼とはキャンパスですれ違ってもお互いに挨拶もしないときもあるような関係で遊んだこともないので友達とは言いがたい気がする。
 まあ就職活動を除いた大学生活は薄っぺらかったね。はあ。ムラムラするもんだからそりゃ性風俗にも興味持ちますよ。いろいろありましたけどその一部を書こう。ハタチそこそこの男なのだから当然欲情もするからね〜(なんでこの項はこんなにやる気ない項になってしまったのだろう)。

(七)

 はっきりとした恍惚を得ることとなったのは性風俗の二回目の利用のときであった。小学校近くのホテルの部屋に入室して「Sっぽい女性」と電話でリクエストして、数十分後にドアから現れたのは年上の長身ギャル。一回目の性風俗利用では病的な浅黒い肌で、胸もまな板でどうにも「コウフンシテルノ?」などと感情の抜けきった棒読み口調で問うてくるひたすらに狼狽させられた女性と比べれば、れっきとした欲情できる女性であることはまず間違いなく、これから何が起こるのかとドア玄関で内心胸が爆発寸前になった具合である。
 最初に適当な挨拶めいたものをして(何を話したか定かでない)、そうしてガムを噛んで終始落ち着いたギャルに金を払ってから、お互いに衣服を脱ぐのであるが、どうしたものか、目の前でギャルがブラやパンツまでも脱いで全裸になっていくのである。はて一体どうしたものか、いや、それは性風俗ではあまりに普通の光景なのであるが、童貞めいた自分にとってみてはあまりにもそれが非日常的光景で、もはや宇宙を旅する猿のような心境であった。かくして浴室においてシャワーを浴びるのだが、その際に長身ギャルの腹にタトゥーの入った様に目を奪われながらも、たわわに実った乳をひたすらに凝視し、「おっぱい揉ませてください」とシャバでは絶対に言ってはならぬ言葉が平然と自分の口から出てきて、そうして風呂で快く胸を揉ませて頂き、それにより勃起していると「えっ!もう勃ってるね!?若いね」などと言われ、竿に手を伸ばされ、握られ、手扱きをされる具合で、どうしたものか完全なる勃起をした具合である。普段、指を銜えて眺めるくらいしかできなかったギャルが、目の前に全裸でこちらの竿を、、もはやこれは一抹の不安もない恍惚であった。
 が、シャワーを浴び終えて、ベッド上で素股やフェラ、顔面騎乗なぞをされたというのに自身の特殊な性質により、一切合切の射精ができず、時間も無いよ、なぞと厄介めいたセリフを言われて、やむなく嬢の前で自慰をして射精するという間抜けな態を晒す羽目となる。そうして放液すると、ギャルは「うわ」などという気味悪げな声を発してティッシュを投げてくる具合で、そうなると「(なんて金の掛かる自慰だ!)」と自分は序盤の恍惚をすっかり忘れて、結末の後味の悪さだけを都合悪く切り抜いたアンニュイな感情を抱えながらシーツに纏わり付いてしまった自身の液体を、投げられたティッシュで震えながら処理する具合であった。

(八)

 しかしまあ性欲と云う話になると、いくら肉欲女子が増えたといわれる昨今とはいえ、平均一分に一回は性的なことを考えるといわれている男と云う生き物は、女からとんでもない生き物だと捉えられるのもやむを得ないと思っている。この項では後半部分において私の野卑かつ稚拙な妄想の中身を紹介することになる。本当はしたくない。
 時間の有り余った大学四年の夏のことである。無料情報誌で何気なく見つけたお中元の短期アルバイト募集に例によって深く考えず応募し、国立大学の近くにあるショッピングモールで短期アルバイトをしたのは、暴君大学の単位もほぼ取り終えて、フリーターの頃に引き続いて働いたラーメン店のバイトも辞めて、暇を持て余した時であった。
 お中元のバイト連中は場所柄もあってか皆、国立大学の学生で年下ばかりである。連中は私の通う大学、年齢を知らないのではあるが、いかにも年下、国立大生という人間ばかりに囲まれると否が応でもインフェリオリティーコンプレックスを抱かざるを得ない具合である。
 まず、熟練バイトの国立大二年の眼鏡を掛けた丸顔の福島女が東北弁丸出しで商品の包装に関して私に指導してくるのであるが、日頃不器用が高じている私は、包茎、いや包装が酷く苦手なため、より丁寧に指導をされるものの、いまいち呑み込みができない状態が続く。そうして包装紙を切るカッターの切り方すらてんでダメで、「どうしてこんなこともできないの?」などと半ば呆れ顔で言われる具合である。その女は私の約三歳年下であるが、その頃の私は年齢が下に見られがちであったので私を同年齢程度に思っていたのかもしれない。それにしても二十二歳当時に十九かハタチの国立大生の女にちゃべちゃべと手取り足取り教えられていると、何か恥辱のようなものを感じたものである。すると陰で、やはり熟練バイトの国立大三年の天然パーマ風痩せ色黒男が「ゆとり教育の影響かねえ」とこちらが聞こえるような場所にて小声で吐き捨てるように述べている具合である。向こうはこちらの年齢を知らないとはいえ、年上である私に対してゆとり教育云々をぶっきらぼうに述べたこの言は、単純に配慮のない暴言であることは間違い無く、私はその時点で色黒に対し、敵意を抱く具合である。
 そうしていざその色黒が私に対してレジを教えようとしてくると、先ほどの吐き捨てた小声のような態度はなく、割と親切丁寧に教えてくる具合である。しばらく私に教えると、同じく熟練バイトで、色黒の同輩か後輩であるようなやはり国立大生らしい綺麗目の女としきりに会話をしだす有様である。なにやらサークルだとか勉強について話しているのであるが、私はその耳障りな会話を遮断し、脚を組みながら永延とリピートされる中元コーナー全体に響き渡る無味乾燥な中元のテーマソングを耳にしつつ、注文書の入力方法を一人で学習する。そうすると色黒が「脚を組むのはやめようか」などと健気に述べてくる具合である。客は周りに誰もおらず、自身は女とくっちゃべっているにも関わらず、私の姿勢を説教してくるこの様には、何か学歴や教養に恵まれた安全圏内にいると勘違いした余裕みたいなものが感じられ、さらにはそうした教養至上主義者にありがちな、隙あらば見下そうといった腹黒さが見透かされる言動に違いなかった。そうして私が「あ、そうかい」などと脚を解くと、色黒は再び綺麗目女と雑談をしだす。これに私は激情を内心抱きつつ、女は女で色黒が私に対して説教をする様を黙って眺め、その後、普通に色黒と雑談を再開しだしたわけで、何かその保身じみた所作には計算したあざとさが感じられる次第である。こうして包装も難しいし、人間も難しそうなのが多いし、もういいや、とバイトをさっさと辞めようと思い、バックレを決意すると、「いろいろと教えてくれてありがとう。明日もよろしく」と心にもない言葉を色黒に掛け、帰宅する。そして深夜、虚室にて手淫のネタにその腹立たしいバイト連中を使ってやろうと思った具合である。
 場所は薄暗い倉庫の中である。私は草むらで拾ったコン棒のようなものでビシバシと色黒を痛めつけに痛めつけた末に服を脱がし、シャツとトランクス姿にする。戦意喪失中の色黒はひとまず放置しておき、さてどうしたものかと、福島女と綺麗目女において3Pを施すことにする。とりあえず両者の胸を片手ずつで鷲掴みにし、肌を味わうように愛撫する。そうして強い拒否反応を示す福島女に「やい!東北訛りであえいで見やがれ!」などと最低な罵声を浴びせつつ、どこからともなく取り出した電動バイブで股間に強く押し付けると、福島女の苦々しい悲鳴が甘ったれた嗚咽へと変化する有様である。そうして声高く喘ぎだす福島女の様子を、綺麗目女がじっと見ている。この様に私はなぜか腹立たしくなり、片方の手を福島女に使いつつ、もう片方の手で綺麗目の方の股間にバイブを押し付ける。そして恍惚を感じさせてやったタイミングで、私は傍で佇む色黒に対して声を上げる。「トランクスを脱げ!」と激昂する具合である。当然、いきなり色黒は脱ぐはずもないので、私はあらかじめ倉庫隅の即席キッチンにてカセットコンロで強火で熱した中華鍋を使用して調理していた餡かけを取りに行く。そうしてお玉で餡を掬い、「言うことを聞かないならこうするまでだ!」と色黒の天然パーマ目掛けて、東野幸治の要領でしたたりかける具合である。餡がたれきって熱がる色黒の天パに対して「焦げきったカタ焼きそばだなあ」などと述べてみるも、色黒が何も脱がないことに腹立たしくなり、そうして餡をトランクスに向けてぶっかける。するとようやくに男はトランクスを脱ぎだす具合である。そうしてすこぶる勃起した色黒の竿が登場するので、「おい!何勝手にコウフンしてるんだよ!馬鹿たれ!」などと罵声を浴びせる。漲った色黒の竿を尻目に、私はやや満足した面持ちで再び女二人をゆっくりとのんびりと犯し続ける具合である。
 そうした愚昧な妄想の挙句に放液を果たすのであるが、放液した瞬間、何かこの世の悔恨をかき集めきったようなものが頭上をぐらぐら逡巡しているかのように感じ、全身の力が抜け、途端にバイト連中に向けられていた嫌悪感は三倍返しで自分自身に跳ね返ってくる有様である。ぐったりと、また間違った恍惚を得てしまった、と低く呟き、虚夜は私を果てさせるのである。

(九)

 大学三年も後半になると就職活動がスタートする。私には子供の頃から心からなりたいと思う職業なんてものはなかった。親の安定志向の昭和的価値観に流されて中学までは公務員やら銀行員などといった手堅い職業を志望する姿勢は持っていたような気がするが、本心は確たる将来なりたい職業なんてものはなかった。
 大学三年から就職活動をするに当たっては自分なりに多ジャンルに富んで受けて、その後から吟味して選ぶつもりではあったが、吟味する心配はあまり必要なかった。小売会社の面接では、「多分野の会社を受けておられるようですが、なぜ今回我が社を受けるのですか」と言われ、テンパって「その、なんといいますか、ここへは練習で受けにきました」と馬鹿正直に述べてしまって烈火の如く罵声を浴びせられたり、信用金庫の質問会に遅刻してダメな子を取り扱うかのごとく「こういうときは謝るのが先ですよ」と優しく説教されてお引取り願われたり、なんというか実力を出し切れなかったのか、実力が無いのか、おそらく後者であるが、それでも当時の売り手市場に助けられ、内定を貰う。地元の機電系販売会社と過疎地域にある繊維会社の二社である。
 二社の内定を貰ってから改めて自分がなりたい職業を自問してみたのだが、結局何も無かった。二十二年以上生きてなりたい職業というものは、きついきたない危険な仕事でなく、ほどほどに休みと給料がある仕事がいい、というかなり適当なものであった(結局、汚れてたまに危険な仕事をすることになったけどNE)。だから学生が真面目に職業について考えている意識なぞを垣間見ると小っ恥ずかしくなる。
 なりたい職業がないなら、では世の中で何が大切かと自問すると、自分の場合真っ先に食糧が思い浮かぶ。医者や教師は先生呼ばわりされるほど偉いとされているが、人生において毎日世話になるのは薬や教科書や娼婦ではなく食糧である。食糧を作るお百姓さんは何だか世の中において軽んじられている気がする。高級料理を値段当てゲームの道具に利用したり、ジャンクフードを人気順位当てゲームの道具に利用してタレントが飽食に苦しむ様を面白おかしく表現したり、同じ店の全メニューを食べれば「伝説達成」という履き違えた価値観を垂れ流すテレビ放送にはスポンサーが付き、タレントにはギャランティーが発生する。そんな味わうことにそれほど需要がない時代だからこそ食糧に対する意識を高めることは大切な気がする。
 そして食糧に関しては、電子機器や漫画やギャンブルのような専門的な消費者だけが付くのではなく、老若男女問わず、ニートだろうが引きこもりだろうが、エリートだろうがエロい娘だろうが皆が消費者になる。そう考えると食糧に携わる職業に魅力を感じる具合である。だったら食糧を土から作る人間に携わる機電系販売会社はアリだな、と入社を決意し、繊維会社に断りの内定辞退を申し出る。

(十)

 そうして自分なりに心を整えて入社したのである。入社日に当時の社長より三日、三週間、三ヶ月、三年という三の数字を区切りに耐えるように、と世界のナベアツのようなことを仰せられたわけだが、三日目の関東での研修中にしてもはや辞めたいというか自分は向いていないと思い込んでしまった。取り扱う製品、作業が自分に合ってると思えないのだ。無理だなあどうすっかなあ、と考えていると他地域の連中に呑みに誘われる。宿舎にある畳の部屋で、冷蔵庫が無いからぬるいビールでつまみを食べてゲームをして一気飲みするなど。自衛隊上がりが狂ったように酒を呑み、エロ本を回し読みし、空気に溶け込めないまま俺も悶える。そうしてこのまま世界が終わればいいと、布団を被り、眠りに就いて、起きると、同室の自衛隊上がりは早朝ランニングを終えていた。敵わねえ。
 入社三週間が経つと地元に戻り、研修をしていたのだが、基本的に研修といえど先輩が作業する姿を見ているだけで、たまにネジを締めさせてもらうとか基本的なことをやらされるが、それもうまくいかず、やはり自分にはこの仕事向いてないオーラを隠すことができず、どうやって辞めようかと常に考えていた。
 入社二ヶ月目には研修先で同期の池山(仮名)と喧嘩した。理由はどうでもいいことだった。常にハッキリと生意気に意見をひけらかしてくる池山に対してイライラが蓄積していて、とうとうこちらが反駁して口論になって、奴の車で乗りあわせで帰宅する途中に(会社が交通費の経費削減のために新入社員は二人一組で車に乗って研修先へ行かせていた。それにより俺は池山の車に乗って研修先へと向かっていた)俺はキレて唐突に車を降りて逃げてしまった。すると池山が俺を捕まえて説教を喰らわせる。「ざけんな、連帯責任だからお前が逃げても俺も悪者になるだろうが。皆我慢してんだ。俺だって我慢してんだ。俺だって悩みが多すぎて寝不足なんだ。同期だろ!お前が憎いからきついこと言ってるわけじゃない。頼むから分かってくれ」などと。池山もいろいろ考えていたのかと、自分だけが短絡的だったのでは、と思うと申し訳なくて恥ずかしくて、自分でもまさかとは思ったが何だか泣けてきて奴の車の助手席でボロボロ泣いてしまった(人前でボロボロ泣くのはもう勘弁)。それで心機一転して立ち直るならありがちな話だが、俺は数日後、つまらない理由でまたしても(乗り合わせのときに池山に運賃を一日千円よこせと要求される。お前分の交通費は会社からちゃんと支給されてんだろ。あれはガソリン代だけだ、高速代は支給されないからよこせ。高速代は一日往復千二百円だから一日六百円やるからそれでいいだろ。エンジンオイルが劣化するから一日千円よこせ。千円は高すぎるだろうが。と口論していたら段々エスカレートしてきて、セコい池山にもセコい自分にも嫌気が差してきて、どうしようかと、喚きたい衝動を抑えられず)、池山に喚き散らしてしまった。その怒声が研修先の方にも聞こえてしまって、「お前な、ハタチすぎて一体何やってんだ!」と研修先の人に叱責され、迷惑を掛けてしまう。そうして自分の行動は本社にも通達され、さすがにクビを覚悟し、それは別にいいのだが、自分の神経がおかしくなったのかもしれない、と動揺し、もう俺は働くこと自体がメンタル的にダメなのだろうか、人間失格なのか、とうな垂れ、それでもこの状況を打破する何かを必死に考える。そしてその日の夕方、安価な理容店に作業着姿のまま飛び込み、坊主にする。「本当にいいんですか?」と理容店員に三度念を押され、バリカンですっきりとする。翌日、研修先でなんだそりゃ、おっとこまえになったなーと笑われる。そうして坊主頭にそれまで着用してなかったサンバイザーをあえて被って頓珍漢な風貌で時折笑われながら作業をする。笑われようが笑わそうが、相手が笑ってりゃそれでいい。状況を少しでも変えたいと思う故の行動であった。池山とはそれからしばらく気まずい関係が続いたが、数ヵ月が過ぎるとたまに言葉を交わす仲になり、そうして今年の七月、奴は唐突に辞めた。部署の一年後輩が有能でちやほやされて自分の無力さに嫌気がさして辞めたらしい。どうにも奴は繊細な奴で、チャラけた雰囲気を醸し出していたがどうやら童貞だった。
 喧嘩騒動があったにもかかわらず、会社側からは特に咎められず(噂は社内に駆け巡ってしまったが)、兎にも角にも研修期間の三ヶ月をどうにか潜り抜ける。その後、正式に正社員として配属され、時に気狂い扱いされた陰鬱な整備施設で半年を過ごしてから揮発性のべっとりした整髪剤の臭いで満ちた窓際部署に異動して、社会人三年目の今を過ごしている。

(十一)

 窓際部署の仕事は他の部署に比べてハードではない。けれども激務部署だろうが窓際部署だろうが同じ年間休日数なので、休みは世間の平均より十日ほど少ない年休百七日ほど。有給休暇は非常に使いづらい雰囲気で結局、今年はもう年の瀬だが一日も使っていない。大型連休なんてものは盆と正月以外存在せず、果てしない消耗戦が続く。いったい何を励みに生きていればいいのだろう。
 業務は主に機械点検・修理である。日中は一人、各地の機械を回っている。大凡一人でいるわけで客とあまり喋るような業務でもなく、就職してからコミュニケーション能力は大して向上していない。作業時間は、出来るだけ仕事以外のことは何も考えないようにはしている。憂鬱になりたくないし、油断すると事故するからだ。でも不器用性質で物忘れも激しいためか、大した仕事を回されることもあまり無く、あまりにもやることがなく、サボタージュを実行するときもある。かといって見た目が派手な社用車でそう簡単に長時間はサボれない。やはり真剣に仕事をするときはやらねばならない。何か達成できたらできたでそれなりに嬉しいのであるし。この辺は幼少の頃から変わらない。やっぱり人間は達成することを目的として生きなければならないのだと思う。
 けれども生きていくのは大変だ。労働者の悲哀だけは一丁前に携えている。仕事へ行くのは、敵陣百人の中へ乗り込んで行くのと変わらない。なんだかんだ他人には負けたくないという気持ちがあるし、勝つ為には努力が要るし、どうも、いやだ、疲れた。
 日々の労苦には辟易とするものの、先述の高校時代の悪夢的な苦痛に塗れた時間の消費の仕方に比べれば一段とまともになったとは思う。だけどもいつも何も生み出せていないのではないかと不安になる。移動中の車内では時折、社用車内でものまねタレントの物真似を全く似てないヤケクソ染みた感じで一人叫んでみたり、道端の看板の感じに適当に『「居酒屋 末っ子」ってどんな居酒屋だよ、あれか、戦後間もない頃の多人数兄弟の末っ子の女将が経営してるのか』などとオチもない風に言を突っ込んでみたり、田舎道にありがちな片側一車線の道路をのろのろとカメのように走る落ち葉マーク付きの軽自動車に対して『ノロマウイルスに感染しちまったのか!』などと悪態を突いてみたり、フロントガラスにぶつかった虫の体液に辟易したり、事務所にいる時は他所の部署から聞こえる空虚な哄笑に辟易したり、そんなことばかりで一日が終わっているような気がする。休日は休日で、休日を純粋に楽しむ事など年に数えるくらいしかない。やっとの思いでたどり着いた休日と云うゴールが実はとてつもなく平凡で、あまりに味気なくて気持ちが拍子抜けして気だるくなっていくあの感覚はどうにも救えない。今現在、全うなことを全うにやっている感覚を持つことがかなり少ない状態である。
 能動的にならねばとは思うのだけれど、だらだら楽なほうに逃げてしまって何も生み出せていない、本当にダメ人間だと思う。一番よくないのがダメ人間像を濃く演じてしまっていること。ダメ人間なんだけれども、そこまでダメじゃない部分までダメに見せて、嗚呼この人は本当にダメ人間なんだな、と思われることを何故か求めてさらにグレードを落としたダメ人間を演じて、そのうち演じてるうちに本当にグレードが低下してしまうというのが一番ダメな部分。飲み会でしんどくなくてもしんどい顔をして、しんどい時はもう死にそうな顔をしてしまって死にたくなるこの感覚、何なんだろう歪んだ自己愛。独りぼっちが怖いから半端に成長してきた。
 今年は仕事以外で人と接する機会が激減してしまった。以前までは寝ることが大切だったのだけれども、寝るのにももう飽きてしまった。来年はドラマチックな生活を求める。
 ドラマチックな台詞を何も言葉として吐かずに胃の腑に溜め込みすぎたのか、昨年には胃・十二指腸潰瘍になったり、社会人生活は大変だと思う。神経が擦り切れるってもんだ。気持ちを大きく持たないとダメだというのに小心だから困る。
 小心が高じているときは、人間が怖くなるものだ。究極的にはコンビニで買い物することすら困難になる。ファーストフーズのガラスケースの前で品定めしていると、店員さんが「(そろそろレジ会計か?)」といった視線をこちらに向けてくる、それすらも怖くなる。一万円札を使って小額の商品を購入する、それすらも怖くなる。人間が怖くて、それも権力者や成功者やイケメンや美人が怖くて、通常、人とあまり喋らないものだから、飲み会なんかで盛り上がろうとすると結構無理して道化することになる。その時に、自分の人格って云うものがいかに世の中に順応してないかが見えてきてしまうのだけれど、それだったら努力するべきなのにしていないということは、実はそういう世に順応していない自分が好きだったりする自分と云うのがいるのだけれども、でもその自分が好きな自分が嫌で、でも「自分が好きな自分が嫌で」と思えることも含めて自分が好きだったり、でも、でも、でもじゃない、超然としろ!

(十二)

 なぜこんな自分の半生の一部のような日記を書き連ねてみたかと云うと、一言で言えば、いつ死ぬか分からないから。車で無意識にガードレールに突っ込んでしまうだとか、対向車線から8tトラックが突っ込んでこないとも限らない。無差別犯や昔恨みを買った人間が前触れもなく急に現れて刺してくるかも知れないし、若くして心臓麻痺や胃ガンにならないとも限らない。死なないとしても大病にならないにしても転換期がいつ訪れるかは分からない。今日を真剣に生きるために文章を書き続けることは、自分と云う存在をより具体的に遺すためには必要な所作であるように思われる。たとえイエス・キリストに「ノー」を突きつけるかの如く虚室でマスターベーションをするような虚夜の状況下であったとしても、瞬間にあらゆるリアリティを感じ取って文章を投下していくしかあるまい。それが世に巧妙に隠された恍惚を掘り当てるための個人的な手段だ。