師走労働

 十二月中旬に出張に行ったときの出来事。
 出張初日にもはや粉塵だらけで雨にも濡れて助けも借りてへとへとになりながらビジネスホテルの一室にたどり着くと物哀しい気持ちになったものである。私は誰かに愛されたいと思っていたのだが、いい加減、誰かを愛すことを学ばなければならない、などとどうにも感傷的になりつつ、目に泪を溜めながら、風呂に入ってテレビも本も見ずに夜九時半に静かに眠ったのである。
 すると朝三時半に目が覚めてしまう。六時間寝れば十分な身体のようである。とりあえずひたすらベッドで横になっていたのだが、心に隙間ができていて、埋められそうにもない。暗闇に目が馴れ、部屋を見渡す。テレビ、ベッド、文庫本、携帯電話、何も隙間を埋める道具はなさそうだ。ぼんやりと未明を過ごす。
 ようやく朝になる。テレビを付けて番組表を見ると民間放送のチャンネルが二つしかない。一つのチャンネルで日本テレビ系列の「ZIP!」の放送後にテレビ朝日系列の「モーニングバード」が編成されている混沌具合である。ぼんやりテレビを見ているとレポーターが現場で寒さに侵され、スタジオではぬくぬくと司会者が番組を進行している。これも一つの格差である。さらにぼんやり眺めていると地方の仏壇店のコマーシャル(CM)が流れてくる具合である。それは明らかに年季が入ったCMである。仏壇店などの地方CMは十年、いや、二十年以上前に作られているような昭和じみたものを平気で平成二十三年の世に堂々と使い回している具合である。何だか古臭い仏壇店のCMは見ているだけで気が滅入ってくる。結局、最期はこんなに変化に乏しい仏壇というものに辿りついてしまうのかと思うと、朝から煮え切らない思いに駆られるのである。
 そんなこともあってさっさとテレビのスイッチを消して、朝食の定刻七時よりも五分早く食事処に向かった具合である。食事処はホテル隣接のホテル専用の食事処と云った具合で、既に労働者風情の男たちが飯をかっ喰らっている具合である。作業着を着て、その上にジャンパーを着込んだようなブルーカラーの者が多い印象である。
 食事処のテーブルの上には各々のおかず(ぶり、かまぼこ、のり、漬物)が既に予約分並べられており、やってきた人間に対して白飯、味噌汁が提供されるようである。そうして私も朝食を頂こうとテーブルに座ると「朝食券は?」と齢七十くらいのばあさんに聞かれる具合である。「朝食券ですか…?」と応える。さて、どうしたものか、朝食料金は宿泊料と同時に既に前日、チェックインの際にホテルフロントに支払ってあるのだが、朝食券などというものは貰っていないのである。などと思考していると、ばあさんの目にも警戒の色がにじみつつある。私はどうしたらよいのだろうか。とりあえず「自分の会社の別の人が持ってるんで」と場を誤魔化そうとする。そうすると「名前は何というのですか?」と聞かれる具合である。「○○会社のものです」「ああそうですか」と言い、少し間を置いて、「召し上がっていいですよ」と朝食を食べることを許されたのである。
 後からやってきた者を観察していると、紙切れのような朝食券を持参し、それをばあさんに渡して飯を喰らっているようである。後からやってきた会社の人に聞いてみても自身の券は貰ったが、私の分の券は別に貰ってはいないようである。私はだんだんと抑うつ的な心情になりつつあった。 
 まず、朝食券の存在意義を考える。考えれば分かることだが、朝食券の存在は外部から侵入して朝飯をタダでかっ喰らう人間を出現させないことが目的であると思われる。朝食券が無ければ、タダ飯喰らいが頻出し、食事処は壊滅し、閉鎖され、ばあさんの収入は無くなるであろう。そうするとばあさんの子供、孝雄(仮名・四十歳くらい)が「ばあさん、飯屋が潰れちまったんなら、うちこいよ」と述べる。そうすると嫁と姑が共同生活となり、しかし折り合いが悪く、晩御飯のおかずの作り方が荒々しいなどとばあさんが嫁にいびりだし、挙句の果てには一家離散も辞さない運びになるに違いない。
 などと考えると、私は瞬間的とはいえ、店を壊滅させ、一家離散の因となるドロボウ猫と勝手にばあさんに思われて訝しげな表情で見られたことが容易に推測できる。そんな思いに耽っていたら、私は段々と腹立たしくなってきた具合である。私には落ち度がないのである。かといって『私は前夜、朝食料金をホテルのフロントに払ったのである。それなのにフロントは私に朝食券を渡さなかったのである。よってばあさん、貴女が訝しげな表情で「一家離散をさせようたってそうはいかねえ」といった具合で私をまじまじと眺めたのは失礼千万に値するのではないか』と胸を張っていうのが正解に違いないのだが、朝起きて間もないこともあって、私は閉口したまま、黙々と飯をかっ喰らうことに専念したのである。漬物が旨かった。
 それでもやはり朝早くから訝しげな表情でまじまじと見られたことにどうも腹の虫が治まらず、ああいけないと思い、『この人を許すと、私が幸せになるのだ。自分好きになるチャンスだ!』と角礼寿の言葉を心の中で唱えてみるのだが、どうもしっくりこない。まるで言葉が頭に入ってこないのである。
 結局、私はばあさんに訝しげな顔で見られてからというもの、約三十分ほど抑うつ的な状態に陥っていたのである。

 そんなこともあって、朝食を取り終えて、ホテルをチェックアウトし、仕事をおっぱじめようということになる。青松課長と熊さんと打ち合わせをすませ、この日はそれぞれ単独行動と云うことになる。外へ出ると何やら朝から大荒れ具合である。
 物凄まじく霰が地を叩きつけて、さらに強風が吹き荒れているという申し分だらけの天候である。
 私はいやいやと朝八時前に一件目の点検を開始し、二時間ほどで終え、二件目に向かう。道中、荒れ狂った日本海を眺める。これが冬の日本海だ!と言わんばかりの雨霰の灰色の空に噛み付くような荒波。何度見ても物凄まじい光景だ。などと思っていると電話で熊さんが話しかけてくる。大丈夫か、どれくらい終わったか、などと。有難い人だ。私に話しかけてくれる人に悪い人はいない。二件目を終えた時点で寒さと霰と雨と粉塵で精神的にも見てくれ的にもぐちゃぐちゃである。
 そうして三件目。時間は正午前だがさっさと終わらせたいので昼飯は後回しにしてやることにする。朝よりさらに増してきた強烈な風と低温という悪条件を極めた状態で、かつ低温で尿意が倍増したために小便を我慢するという究極的な状態になり(トイレが近くにない)、自分の頭の中に何かが起きる。
 何やら物凄まじい脳内物質が全細胞を活性化させているようで、全く無駄の無い動きで点検作業を進めることになる。ササッササササと云った具合である。どうしたものか、集中力が全く途切れないのである。霰が降って体中を弾けていくのだが、心の方が弾けているのである。さらに、負けんもんね、天気が悪かろうが自分だけには負けんもんね、と云った反骨精神が吐露しだす。うおおおお、うおおおお、と云った具合で終わらせる。俺は労働者なのだ。労働に燃える男なのだ!
 と云った具合で作業を追え、道中のコンビニで昼飯をかっ喰らうことにする。ファミマを見つけ、颯爽とトイレに駆け込み、すっきりした後、弁当コーナーを物色し、「具沢山タルタルチキンの南蛮弁当」を購入。駐車場の軽トラに体を投げ込み、そそくさと弁当のビニールを剥がす。割り箸を割り、食べ始める。
 平素なら「(それにしてもコンビニの弁当と云うものは味が濃いものが多い、まるで味を知らない者が食べやすいように作ってるようだ)」とかしょうもないことを淡々と考えながら口に運ぶのであるが、その時の昼食はもはや箸が止まらず、余計な思考をする間もなく、あっという間に平らげてしまった。身体と精神を躍動させたためか、コンビニ弁当が物凄まじく旨く感じたものである。 
 そうして午後からは青松課長と熊さんと合流し、合同で作業をする。終わったのが夕方五時前。ボロボロの作業着。冷え切った軽トラのフロントガラス。そこからはるばる三時間ほど掛けて帰路に就くのである。
 ガソリンの残量が半分ほど。目算では半分あれば復路に就くことは可能と考えたのであるが、途中、吹雪になり、暖房を強めざるをえない。そうなるとガソリンの減りが早くなってくる。とうとう目盛りが十段階で三になった。どうしたものか、目的地に到着するまでにガソリンが足りるかどうかの瀬戸際。万が一、雪で事故渋滞にでも嵌まればそれこそ目も当てられない。どうせ会社負担なのだからサービスエリアの割高のガソリンスタンドで給油をすればよいのだが、『だが断る』と云った具合で、なぜか私はサービスエリアを素通りしたのである。
 もしもガス欠で車が停まってしまえば、人生の汚点となるであろう。「奴は車のガソリン残量も計算できない愚者」と嘲笑われ、会社中が俺を責め立てる。そうして俺は会社をクビになり路上生活者となって冬に凍死する、と云ったストーリーが脳裏にちらつく。だったら走ってやろうじゃないか!これは生きるか死ぬかのチキンレースだ!ここで給油して安全圏内を生きていてもチキン野郎、俺は今日ノッている!
 などと訳のわからぬ思考回路で兎にも角にも私はサービスエリアを素通りしたのである。その時点の目盛りは三で、残り距離は八〇キロほど。事前の一目盛りが大体、六〇キロ走ったので、まず八〇キロなら走れるであろう。心配することは無い。と思いつつも段々と雪が強く降ってくる。何やら不吉な予感がする。目盛り三が二に減った。まだ五〇キロある。
 ひりひりする。なんだろう。このひりひり感は。ダメ…!一目盛りが六〇キロだなんてまず信用したのがいけなかったのだ…!一目盛りが何キロだなんて誰が決めたわけでもない、気まぐれでなんとでもなる理。六〇、六〇と減ってきて、二〇キロで一目盛り減る事だって考えられる。バランス理論に翻弄され、俺は物の変容を勘繰ることを怠っていた…!
 省エネのため暖房を切る。圧倒的極寒。窓が曇る。窓を開ける。どうしたものか、吹雪の中を暖房なしで突っ走る。
 目盛り二の表示が尋常でなく寒々しい。がらんどうに限りなく近い表示である。とりあえず狂気するのは一目盛りになってからだ。二はまだ安全圏内…!高速を雪のため時速六十キロで走る。全てが恐ろしい。止めておけばよかったのだ、こんなことは。素直にあのサービスエリアで給油しておけばこんな不安常住にならずにすんだのだ、となんだかチキン野郎の思考になりつつも永延と走る。
 寒い、寒すぎるぜ。そうして二のまま何とか無事、会社専用のガソリンスタンドに着く。圧倒的満タン。二日間で軽トラで四五〇キロ走破!圧倒的帰社!圧倒的任務完了!うおおおおうおおおお!働くってことは凄まじく刺激的である。