段々と死にたくなってきている気分ではある

 充実した人間は細分化された好みの情報を受け取り、居心地のよいライフスタイルを目指し、洗練を目指しながら駆け巡っている。人とはあまり接しない私だが、ここ数年の間で接した人をピックアップして考えてみると、風俗嬢も銀行員も大学生も旅館従業員もカフェ店員もみんな、洗練の過程をたどっているようだった。私のような同じ所で同じことに悩みながらぐるぐる停滞しているような半ば自暴自棄の過程をたどるような者はいなかった。彼らは欲望も希望も抑制しているように見えてあらゆるジャンルに興味を持ち、それでいてのめり込むまではいかない。そんな性質を前提としてあらゆる良質の物をのんびりと手に入れようとしていた。同じ作家の小説ばかり読む者はいなかったし、同じファッションをするものもいないし、人の陰口を言う者までもがいなかった。彼らののんびりとしたしたたかさには意志があったし、そこから理想の相手、理想の生活など理想が浮かび上がっていた。私には、ない。
 人生はそもそも暗闇なのである。人それぞれ生まれた瞬間に発火し、火をどれくらいの火力で灯し続けるか、いつまで火を絶やさずにいられるか、消えたらお終い、ただそれだけのことだ。勢いよく燃え続けるも、たらたらだらだら燃え続けても結局消える、と思うと死にたい気分になってくる。
 そんな気分の中、パソコンを立ち上げて簡単に自分の思いをお話している。「誰だってさびしいんですよ、それは異常ではないことですよ」と言ってもらえたとしても楽にはならないだろう。中身よりも「メールが届いています」の文言そのものの方が重要であったりする。どんな人が自分のために時間を割いてメールを打って送信してくれたのだろうか、と思うと純粋に嬉しいからだ。そんな喜びを種火として人と会うことが何度かあった、奇妙なものだ。しかし今は誰とも会う気力もない。人と出会うにつれて、訓練の必要性を感じたからだ。私は未熟者であった。話も容姿も知力も体力も、何より自信がないことがイケなかった。人と会う前には何らかの訓練をして自信を付けなければならない。それは相手がどう思おうが関係の無いことである。ただ話しあえて分かり合える仲間を持つことは自分にとっては訓練の必要な所作なのである。だが、それをする気力も今は無い。昨日から今日に掛けての受信は風俗嬢のメール受信のみである、段々と死にたくなってきている気分ではある。