誠意って何かね

土曜出勤。隣県のとある山の斜面にある集落の老婆の家に粉を持って行かねばなりませんでした。
通常、我が社の機械を使うと粉が出て、それを持ち帰ることができるわけですが、客はそれができなかったというのです。張り紙に書いてある説明通りにすれば持って帰ることができるというのに、どういうわけか(やはり老人には認知症の方も多いですし、呆けもありますので)、できないという電話が掛かり、上司の青松が電話で話し、なぜか私が老婆の家まで粉を持って行くことになりました。過剰サービスではないかと思うわけですが、今日はあまりやることもないので、快諾し、ひょうふっとその家に行くことになったわけです。
カーナビ(壊れかけ)で住所を検索しますと、険しい顔で険しい山道を進み(狸が出そうな道でした)、大体の場所に着いたと思ったら客に電話をし、ようやく辿り着きました。
初対面の他人の敷地内に入るときはいつも嫌なものです。ギクシャクとし《まさに真冬の片田舎の地蔵にように硬直し(その地蔵は決して『笠地蔵』のような童話的な地蔵ではありません)》、ええいと開き直って入ります。
老婆が手を拱いておりました。車を停め、粉を渡しました。そして、張り紙に書いてあるとおりすればよいのです、という旨を述べますと老婆は自分は過去の機械のやり方で粉を入手できるはずだと思っていたと、とにかく自分に落ち度はなかったという旨を永延と述べますので(大抵の客は自身の落ち度を一切合切認めません)、そうですかと帰ろうとしたら片田舎ならではと申しますか、老婆はある物を渡そうとしてくるのです。蜜柑と南瓜(それは奇怪な形、いや、奇怪でも奇妙でも当てはまらないような形。正直に申し上げます。それは淫乱な形をした南瓜でした)を寄越してきました。
私は南瓜はいいですと二回断りましたが、三回勧めてきますので(自分の否定欲も大したことはなかったようです)、受け取りました。するとそれは食用ではない、観賞用だと不可解なことを述べられました。その南瓜を荷台に積むと、整然とした荷台もひどくみっともない滑稽な荷台に成り下がる有様でした。何を思ったのか、老婆は二個目、三個目の南瓜を乗せようとしてきましたので、さすがに烈火の如く断り、去りました。
業務を終え、帰社すると南瓜をどうするか、少し考えましたが、会社敷地内に
隠しました。
仕方がなかったのです。南瓜のために路頭に迷う恐怖から早く逃れたい一心だったのです(ばれなきゃ何をやってもいいという処世術で逃げ惑う罪人が世の中には溢れんばかりいることを改めて思い知りました。無論、敷地内ですから罪ではありません。推理小説的に物を考え、私は南瓜が数ヵ月後に誰かの手によって見つかって笑い話になればいいと思ったわけです)。