悔しいこと、無念なこと、出来なかった事、やられた事、騙された事、日曜の夜の今私の中ではこれらのことが頭を逡巡しています。
 もう私は前向きに生きる気力がございません。購買意欲すらありません。最近ははっきりと物を買いたいと思う気持ちが無くなりました。夢現なのです。女体すら欲しません。
 私は模倣しました。喋り方や人との接し方を面白おかしく模倣し、人と打ち解けるよう努めました。けれども皆、余所余所しく対峙するだけなのです。もはや誰かと解り合えるという気持ちがなくなりました。
 停めては行けないところに車を駐車して、人間に怒られてしまった。マトモなのは向こうであろう。私はマトモではないのだろう。そうして妙に殺気立ってきた。どこかでクラクションの大音量が鳴り響いた。煩かったので私は煩いと叫んだ。何かに反抗の気を見せつけたかったのだ。
 数日前、初対面の女と会話をして食事をした。話がかみ合わなかった。私は自分の趣味が分からなくなっていた。何を話せばよいのか分からなくなっていた。私はこれまで常々と会話と言うものを拒否してきた。そのツケが回ってきて、ある時期から人との会話中は澱んだ気持ちが常に支配することとなった。結局、会話も盛り上がることなく食事を終えて別れて、その後は一度もメールのやり取りはせずにその人との関係は断絶した。
 学生時代から薄々と得たいのしれぬ不吉なものが私の心を支配していたが、ピクニックや食事、観光などで気を紛らすこともできていた。それが今やできなくなってきた。会話というものに興味を持つことが遅かったため、今更会話に興味を持ったところで鮮度が落ちている会話をすることしかできないことがきっとばれているであろうという違和感を毎日感じながら会話をし続けるのも億劫である。
 私は飲食店に入り、食事をする際、ここで食い逃げをするとしたらどのタイミングで退店しようかと、犯罪者然とする夢想をしながら食べているのである。そのたびに私は三島由紀夫の「人間最期の Complex の解放が必ず犯罪に終わるという悲劇」という言葉を思い出す。醜が美を求める時、やはり、それしかないのかもしれない。