初めての握手会

名古屋駅に到着すると、初夏を思わせる暑さが身を纏った。もう夏か。

半袖で駅構内を闊歩するも食欲がない。自分の中で一大イベントが起きる時は緊張感から大幅に食欲が減退するのである。

空腹で倒れても困るので目についた「矢場とん」にてヒレカツ定食を食すも、あまり喉を通らない。やはり緊張している。どれくらい緊張しているかというと自分の人生でベスト3に入る緊張感である。因みに一位は中学時代に部活で選手宣誓をしたことだ。

偶像崇拝の対象者と会うこと。動画やブログやぐぐたす、コンサートで見続けたメンと握手をするということ。それは実に画期的なことだ。
ほどよい時間になるとあおなみ線に乗り、会場であるポートメッセ最寄りの金城ふ頭駅を目指す。

駅に到着し、改札を出ようとするもヲタの数は意外とそれほど多く無く、何か弛緩した空気が港町に溢れている塩梅。
ポートメッセまで歩く道中、港と芝生で景色が良く、先ほどまでの人がごった返した名古屋駅を思い浮かべると、幾分居心地がよい。
向かい側からニタニタしたヲタが駅に向かっている。既に握手を終えたのだろう、皆、笑顔。田舎では聞かないような無機質な口調で本日の感想を述べあっている。
俺はそういえば独りだ。リアルでは今まで誰ともヲタトークをしたことがない。

会場のとある館に入ると机にカードを並べて必死にトレードしている連中が多数。どうやらここはトレーディングカードの空間らしい。異様なくらいどんよりした雰囲気だった。廊下に出て自販機の前の僅かな椅子にもヲタが座り、会話をしている。
何かポートメッセ全体がヲタに支配された異空間といった具合で、わたしはRPGの主人公のような気分で彷徨っている。

そうしてメインの会場に突入した。長い道のりであった。しかし、やっとここまで辿り着いた。
会場にはレーンがメンバーの数だけ存在している。ヲタはレーンの外に溢れている。ヲタ同士の会話がいろいろ聞こえてくる。
「今日ピンチケ(学生ヲタの意)よりおっさんのが多くね?」
と淡々と女子中学生みたいなヲタが無機質に話していた。カオスだ。

レーンの外からも遠目ではあるが、メンバーの様子が確認できる。推しメンバーがいる、いる、いる、何やら身震いする思い。他を見るとさすが松井玲奈は沢山並んでいる。私の推しメンバーのところは並ぶほどの人はいない、いつでも待ってるご様子である。
レーンに入るには握手券、納品書、身分証明書が必要である。俺はカバンを開けて深呼吸をした。いよいよ推しメンと会うときが来たのだ。俺の歴史は今日という日をきっかけに大きく変わるのだろうか。
そうして握手券、納品書、身分証明書である免許証を手に取ると緊張もピークに。

あああああ。いひっひいっ。あああああっっ。

何か今直ぐにでも逃げ出したい思い。そうして俺はあろうことか会場内をぐるぐると歩きだした。

全く別の世界に行く一歩手前、何か凄まじい気分に陥っていた。前日まで田舎で粉塵に塗れて仕事をしていた俺がアイドルと対面するのである。実物と喋ることなんて人生であるとは思わなかった。
俺は緊張を重ねていた。やがてこの優柔不断さが今までの俺を作り上げたのだという自己嫌悪までも私を支配する。そうして三十分が経過する。緊張というのは時間が経ち、鮮度が落ちると焦燥に取って代わる。

握手しなければ帰れない。


そう戒め、やっとの思いでレーンを突き進む。握手券、納品書、身分証明書を提示。さらに進み、剥がし係に握手券を渡す。
前のヲタが会話終わる。笑顔で見送るメン。真顔に戻り、こちらを見てくる。(いひっひいっ。あああああっっ!考えるな!感じろ!)
内心心臓バクバクだが、あっさりした感じで握手をする。


私「はじめまして」
メン「はじめまして」
私「最近ファンになりました」
メン「えっ?うれしい。なんで?」
私「可愛くて真面目だから」
メン「ありがとう〜」
私「コールとか覚えるから」(剥がし「お時間です」といい背中に手を置く)
メン「ありがとうバイバイ〜(手を振る)」
私「(振り返しながら退出)」


終わった、ふう…。やはり五秒じゃこんなもんかという気持ちと、メンが満面の笑みなのにこちらは緊張で顔面蒼白だったから申し訳ない気持ちと、何とかどもらず会話できたという達成感と、とにかく手の温もりがありがたくて、可愛くて仕方なかったという思いが交錯している。


私は五秒の握手を終えて、ただ、歩いた。帰路に就くのだ。


余韻に浸りながらポートメッセの外を歩いていたら突然メガネのヲタが話しかけて来た。
ヲタ「誰推しですか?」
私は初めてヲタに話し掛けられた。「ん?なかなかいい趣味してんじゃないか。がはは」というノリの返答を期待して、

私「○○ちゃんだけど」
と正直に答えると

ヲタ「じゃあカードいくらで買ってくれる?」
様子がおかしい。


私「えっ?」
腕を掴まれる。
ヲタ「あそこにいる子が帰りの電車賃が無くて困ってるんだ」
私「(なんだこいつ?)いや、俺も金無くて困ってるんだ」
ヲタ「千円でいいから何とかなりませんか」
私「なんだ寸借(詐欺)か?」
ヲタ「ちょっとお兄さん何言ってるの!」
私「うるせえ乞食!」


そう叫び、腕を払い、反逆的な目つきで駅へ向かった。そうして俺はロックに生きなければ、と思った。