二〇〇八字日記

あけましておめでとうございます。
新年になると世の民は呪われたようにこの言葉を多用します。この言葉は新しい年を無事、命を落とすことなく迎えることができたことを祝う、まあいわば「生き残れてよかったね」というバトルロワイアル(教育上、好ましくないと思われる作品)でいうと七原秋也状態であり、それはめでたいことなんだと思います。さあ平成二十年の始まりです。
正月なんかって年中無休の店って凄いなって改めて実感するわけだけど、俺は外食をするときはそれこそ戦場へ行くような気持ちで行くことにしている。基本的に金を払うにしても自分の食い物を他者に作らせるということは傲慢な間違った行為であると思っている。だからサービスが無くても飯が不味くても文句は言わない。外食でバイトをしていたせいか、外食に対して諦めというか、開き直りというか180度見方が変わってしまった。
牛丼屋に行くときは牛丼を食べて、十年後に発症したときのことも考えるようにしている。「10年前に狂った牛肉を食べた32歳男性、頭がスカスカのスポンジ状になって昨夜、搬送先で死亡」とか記事で書かれて2chとかで「牛丼食べて死ぬってw」「残念なおっさんだなあw」とか散々嘲笑されて近隣のアパートメントの住人に「えっ亡くなったんですか?死んだkonrinzaiさんは本当、何考えているか分かんなかったね。よく早朝にバット持ってうろついていたよ、気味悪かった」とか死人に口無しだからって言いたい放題言われるといった無念な世情。そんな未来を覚悟しつつ、俺は牛丼屋に出向いているわけだ。それくらいの覚悟で行くのが妥当だと思う。
江戸の頃は毒味役といって、権力者の代わりに毒によって命を落とすことになった者もいたのだが、さすが先祖の人徳者のおかげでそんな風習は消滅している。格差社会といっても今の格差社会は大したことはない。かつての人徳者のおかげだ。食いたいものは自分で毒味する。自然な状態が一番だ。
牛丼といえば、来年は丑年で年男ですよ。まあ来年のことを言うと鬼に豪快なマウントポジションを取られて高笑いされるので来年のことは放っといて、今年の干支、ネズミについて語る。そういえばネズミは最初の干支です。いかにも速そうなイノシシが箱根でいうシード落ちに当たる12番手って時点で信憑性が薄いですけど。
「イノシシ大学は12番手で小田原中継所に入ってきました。残念ながら次走者は繰り上げスタートしています。いま無人の中継所にゴール」ってな感じだろ。で、ネズミはというと「さあ大手町のゴール手前、ウシ大学が優勝を確信した!えっ!あっ!なんとネズミ大学がウシの上から降りてきた!なんという番狂わせ!」という風にネズミはずる賢く優勝。
あと「ネコ大学は集合時間に間に合ってなかったのですが、そのことについて関東学連からの処分が決定いたしました。永久追放です」。以上、箱根的干支妄想でした。
ネズミといえば「ドブネズミが美しいとわかんねえ奴は大した事ねえ」という甲本氏の名言。これは考えさせられる。見てくれなんて気にしないで自分を賭けて闘い続けろってイメージが伝わる。
R-1ぐらんぷりに出るということ。私は思います。2分間、人前で自由な表現をするということは自分の存在証明なんだと。どんなにくだらないネタでも自分なりに爆発させる、他人がどう思っているかは二の次、三の次。自分が満足することが一番だと思います。でも正直苦しいです。普段、誰とも会話していませんし、舞台なんて立つかと思うとどうかしそうです。でもどうかすることも必要なんだと思います。
さて、私の現在の暮らしぶりはバイトを辞めて学校も冬休みの今、ただ朝から晩までネットをしたり、ドラッグストアに行く程度の些細な外出をしたりするくらいの誰との交友もない、阿呆同然の暮らしです。とても陰鬱になります。こうしていると、辞める間際はもう嫌で仕方がなかったラーメン店で働いていたときの思い出すら美化されています。仕事内容はしんどかったけど、仕事仲間は好きだったのです。ラーメン店で声を掛けてくれた仕事仲間を思い出し、あの人たちはどうしているだろう、話をしたい、などと思うのですが、それを思うたびに、嗚呼、去年、おととしの自分にとっての人とのまともな交流はラーメン店の仲間だけなのかと思い知り、何か背筋が凍りつくような不穏な気配を感じ、また陰鬱になります。そして彼らと再会して満足すればそこで自分は終わってしまう、故に彼らとはもう会ってはいけないという哀しい自戒をします。
女性。私も男に生まれた以上、彼女らを意識せざるを得ません。とても陰鬱になると女性を求める哀しい性癖が私には多少なりともあるのです。
平成二十年。私はどうなっていくでしょうか。少なくとも頭でいろいろ考えるより、行動するほうが良いと思われます。とにかく苦しいです。おろし竜田揚げ弁当が食べたい。