犯罪被害者の視点

(これは日記ではないです)。
たとえば、凶悪犯罪が起きたとする。ニュースを見た私は一抹の嫌悪感を覚えるものの、結局は時間が経てば自身の食料、晩御飯のおかずをどうするか、だの極めて庶民的な思考に呆気として戻る。この思考回路に何度も疑問を抱き、罪悪すら感じるようになった。他人ごとであれば、どうでもいいということに決着しているこの事なかれ主義こそが無差別殺人などの凶悪犯罪を抑制できずに、生み続けているのではないか。無関心こそが犯罪に加担しているといえるのではないか。いつか殺される危機感を持って、私は関心を持たなければならない。他者の犯罪被害に深く関心を持てば、自身の人生に対して鈍感になったり、精神状態が思わしくないことになることも重々承知している。それでも無数の難儀の塊の持ち主である犯罪被害者の難儀の塊を少しでもいい、ただ、少しでも減らしたい。そのために想像をする。


【犯罪被害者の視点】
想像するのは簡単だというが、そうでもない。人は一日5万回も考え事をすると言われている。その中のほとんどが難儀であることを想像するのは簡単なことではない。それでも考えなくてはならない。抜けているのは想像力なのだ。


『酷い。憎い。許せない。許せない。ああどうしてこんなことになってしまうのか。生かしてはおけない。あれが生きていると思うだけでぞっとする。空気を吸って、水を飲んで食事をしていることが許せない、許せないです。返してくれないか。私のあの人を返してくれないか。どうしてこんなことが起こりえるのだろうか。嗚呼、どうしてこんなことに。何も悪いことをしていないというのに。あいつは人間ではない、畜生です。あの人があいつに酷い目に遭うときのことを考えると、あのときの自分がどこで何をしていたのかを考えると、とても呪わしい。せめてあいつを死刑にしてください。死刑にしてください。
私の心の中はあの事件以来、常に不安が蠢くようになりました。「犯人を殺したい」という醜く、真っ当な考えも何度も反芻しています。何をするのも何を考えるのも苦痛になりました。不愉快です。もう職業を求めないし、金銭も求めたくない、ただ返して欲しい。
嗚呼、なぜ被害者であるあの人の名前が新聞やニュースや雑誌、粗悪な雑誌で書かれ、読まれているのか。まるで異星人扱いだ。マスコミを憎く思った。他人が他人事を愚かしく揶揄しているネットの掲示板は見たくも無い。知り合いから頻繁に電話が掛かってくる。「ニュースを見たけど本当にそうなの?」、「できることがあったら何でも言ってね」だって。距離を置いた感じの声でこんなことを言われても困る。「お気持ちはわかりますが」。こういう他人に限って気持ちを理解していない。身内が被害に遭ってない者が何を言っても無駄である。無言でいてくれた方がありがたい。受け答えを長くしているとどうしても呼吸が荒くなってしまう。様々な困難が生じている。身内じゃなければ他人事であれば、どんなに楽だろうか。そんな考えはよくないとは分かっている。それにしても人間は親兄弟、恋人、親友が同じ目に遭わなければ真剣に犯罪を考えないのだろうか。
何日が経とうと猛烈な勢いで不快感、不安感が訪れます。背筋が凍る。まず「凶器」。凶器を実物、映像、画像、言葉によって感触やにおい、感情を想像してしまえば圧倒的な嫌悪感を覚える。「ナイフ」ならナイフ、「包丁」なら包丁。使用するたびに、この凶器で殺されたことを思い返す。殺人者の姿、形、姓名。これに動揺する羽目になる。姿、形が似ている人間を見かけただけで戦慄を覚える。苗字が同じでも名前が同じでもその人間に対して違和感を覚える。同じ姓を見るだけで思い出し、嗚咽へと繋がる。なんてことだ。
「凶器、血、殺、内臓、自殺、闇、拘置所、難病、病死、格差社会、運、落ち度、演技、常軌、娯楽、結婚、妊娠、家庭、季節、密室、忌、死刑囚、報い、狂人、障害者、健常者、異常、運命、悲鳴、脈拍、息づかい、肌色、肉感、におい、感触、…」
キリがない。あらゆる単語、全てが事件のイメージと通じ、気持ちを圧迫する。遮断するしかないのか。この無数ともいえる塊を遮断する方法などあるのだろうか。そもそも遮断すべきなのだろうか。
無理矢理にでも切り替えて生きていくことがあの人にとってよいことなのでしょうか。悪いことをすれば「罰があたる」と私は幼少期から言い聞かされてきました。それなのに、それなのにどうして悪いことをしてないのにこれほどまでの仕打ちを受けなければならないのでしょうか。生涯にわたって教えてもらってきたこと全てが出鱈目だったんだと言われているようなこの衝撃をどう理解すればいいのでしょうか。今回、植えつけられた世の中に対する不信感はもう拭える気がしません。
思い切って気持ちを切り替えようとすると、凍ったような冷え冷えした嫌悪の手先が心を鷲掴みにするように、握り締めてくるのです。そして「私は救えなかった」という思いに苛まれます。そしていつもいつもぐったりしてしまいます。
あの人は天国に行ったと思い込めば幾ばくか楽になれるとも思いましたが、いや、しかし、そんなことはもう気休めにもなりません。あの人は消えたのです。この世から消えてしまったのです。人間が生き返らないというこの単純かつ絶望的な事実。この事実にどれだけ締め付けられなければならないのか。ただ心もとない日が連鎖してやってきます。
罪悪。自分がふと快楽を感じている瞬間に抵抗を感じる。風呂に入って一息つく瞬間さえも、テレビでお笑いを見て笑いそうになったときも、自分は快楽を行使してはならないのではないか、という罪悪に苛まれる。どうした感じで、どうした感じで生きていけばいいのか。分からないんだ。歳月が過ぎ去った今もあのときどうしてああしなかったのかが思い出される。救えたのに救えなかった。悔しい。思い出の地の空気、心地良い風、全てが懐かしい。
難儀なのはあの人が記憶から確実に遠ざかっていることです。私は確かにあの人と会話したり、歩いたりしました。奥深い関係だったあの記憶が薄まっているこの流れ。自分の意志とは関係なく、あの人の記憶が遠ざかっている。いっそのこと忘れた方が楽になれるのでは?馬鹿いっちゃいけない。それだけは言っちゃいけない。忘れることは許されない。自分を楽にしようとしちゃいけない。
ただ一緒に生きていただけでも、それだけでも十分によかった。こんな単純なことにあの時までに気づけなかった自分が憎い。
「おいしいお店、高性能の精密機械、いい天気、とがったブーツ、にぎやかな街」。何を見ても全てが嗚咽に繋がっているとしか思えない。街であの人と同世代の人間を見る。皆、幸せそうだ。ただその幸せそうな状態の他者が自分にとっては何を意味するのかが分からない。この煮え切らない感情をどう処理すればいいのか。全員が幸せになることができないこの世の中でこれからどうしていけばいいのか。事件以降、他人の話も頭に入らない。「悩む」という言葉だけでは通用しない。この状態を果たして幾人にわかってもらえるのだろうか。分かってもらえなくてもいい。あの人だけがどこかで納得してくれるのであれば、それだけです。生きていると死んでいるでは絶望的に差があります。死んだものを生き返らせるのは不可能です。この単純かつ絶望的な事実をいよいよ受け入れようとしながら、難儀の塊を減らそうとしているこの様をあの人が見ていてくれていると思うことで、なんとか、辛うじて生きています』。


死刑を望む犯罪者のいうそれは「最も楽な逃げ道」なのだろう。被害者と加害者の死を一括りに考えるのはあまりに野暮で、考えるだけで恐ろしい。ただ、生きていると死んでいるでは絶望的な差がある。加害者が生きているという事実だけで絶望を感じる被害者側の意見を尊重すれば死刑というものを重宝しなければならないのもまた事実だ。
それにしても死刑執行までの道のりが長い。たとえ、死刑になるとしても三審制の裁判で死刑判決が下されても、それが確定し、法相が命令書に押印、死刑囚のいる拘置所に命令書が届き、当日に担当の職員が選出され、死刑囚は言い渡しを受け、執行されるまでどれだけ長いことか。そして「○○事件の○○に死刑が執行された」、これだけの情報だけが被害者遺族の元や世間へ舞い込む。報われるわけが無い。一体何なのだ?被害者の殺され方は淡々と描くというのに執行された人間がどんな様子で絶命したかは全くニュースでは描かれない。国が殺した、という出来事をできるだけに秘密裏にしようとしているではないか。被害者がいたぶられる描写をこと細かく見させられたり聞かされるのに鞭を打たれるような不快を感じさせられるにも関わらず、加害者が死ぬときは妙に呆気らかんとする。これが世の中だ。この状況下で死刑に賛成、反対、と語られるに至ってしまっていいのか。「脈拍、息づかい、肌色、肉感、におい、感触」。これらは決して文章や映像や画像で表現できない。画像や映像ではダメだ。むしろ、そんな機器を通した死体は見ない方がいい。実際の他殺体を生で見なければ感覚は研ぎ澄まされない。生で他殺体を見ればおそらく全て吹き飛ぶ。殺人者に対する認識が圧倒的に変化する、と推測する。