虚仮生活(一)

生きている事。 ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。 
太宰治「斜陽」より)

 仕事で、とある若い女性職員に優しく応対されると、金輪(かなわ)はしみじみと女体に触れたいと思うのである。そして道路を走る際、若い女性がいると胸や尻をじっと眺めることが最近また増えたそうである。なるほど、春である。
 女体に初めて触れたのは彼が大学三年の三月のことである。彼はそれを思い出すたびに全身がインポテンツになり、何もする気が起きなくなるようである。以下は彼の手記である。

手記(一)

 一人、足早に小学校近くに存在するその隠微なホテルを出て、停めていた車に乗り込み、放出できず仕舞いの、達成感のない虚しい状況下でエンジンキーを入れる。虚しさが打ち勝つことは仕方のないことだった。
 暇を持て余した大学生活を過ごしていた私は何気なくネットカフェでナイタイだかなんだかの性風俗関連雑誌を読んでいた。色けた雑誌の女の乳などをじっと眺めていると、私はしみじみ女体に触れたいと思ったのである。そして何度も、何度も躊躇い続けていた性風俗をいよいよ遣おうではないかと決意したようである。
 初めての性風俗利用前夜、持病の偏頭痛が酷く、寝床にさっさと入ったのではあるが、「虚脱、発病、興奮、性器、恐怖、失踪」などあらゆる感情絶えず心中を襲ったため、三時間ほどしか眠れなかった。まさに心臓をタコ糸で縛られたような心境であった。
当日は朝四時に起き、それから悶絶するようにラジオを聴いていたのである。起きてからの時間は恐ろしく長く、食欲もなく、欲情しっぱなしで全く落ち着けない状態であった。私は朝からデリバリーヘルスを利用することを前々から計画していた。
 出かける直前の九時四十五分になると欲情していた気は掻き消え、私のイチモツは恐ろしく縮小していた。車に乗り、ショパンの「幻想即興曲」なぞをリピートして聴きながら運転し、まず銀行で三万円を下ろす。これは私にとっては圧倒的な引き出しであった。
 そしてネットで調べた比較的新しい、且つ隠微なホテルに電話してシステムなどの確認をしようとする。老婆が電話に出たので入室方法を聞きだした。
 隠微なホテルの駐車場におどおどと車を停めて、とうとうホテル内に突入。鍵を取り、部屋へ入室。
 「自分はラブホテルにいるんだ」という何ともいえない昂揚感が押し寄せ、少しずつ興奮、そして疑念が高まる。
 部屋に入ると、もわもわとした心のわだかまりが一気に固まり、心中を襲う。一層、おどおどとしだし、自分がここに存在する何ともいえない違和感を肌に感じる。逃げようか。
 不安を抱きつつも決死の思いで性風俗業者の番号を押す。
「はい○○学園」「えーと頼みたいんですが」「はいどちらまで?」「○○ホテルの○号室」「分かりました。では伺わせますので」「……あっ、……あと……学生服をお願いします………」「あっ?はい分かりました。二十分で行きますので」

 一方的に電話を切ろうとする無愛想な業者の中年との会話を何とか終え、後は待つばかりだ。どうせ初めてなのだから運命に従おうという妙な開き直りからタイプ別指名はせず、その代わりに有料オプションの学生服をお願いするという具合である。

………。
二十分といっていたが約三十分、おぞましい待ち時間が経過する。ラブホテルの天井をじっと眺め続ける時間の窮屈さったらない。ギャルが来ればいい、とかこのまま誰も来なきゃいいとか、普段人と関わらない私は突然人が訪問してくるというシチュエーション自体に全く慣れておらず、過度の緊張でどうしようもなかった。

「トントン…!」「どうぞ」「どうも」
 もうその時点で駄目だった。どうにも三十近い不健康そうに痩せこけた蛇みたいな顔立ちの情婦がやってきた。ならばチェンジと云う手段を使えばいい、ただ、それだけのことだというのに私は、できなかった。
日頃脆弱な神経が高じている私は、他人の要求を脱脂綿のようにすぐさま吸収する悪癖があり、この日もドア入り口からぐっと草臥れたナイロンバッグを手に室内に足を踏み入れようとするその情婦を、もはや拒否するような気にならなかった。何か拒否すればその蛇のような顔で一生頭に浮かんでは離れないような睨みを利かせられるのではと、極めて童貞な私は震え、チェンジの「チ」の字も頭の中から掻き消されてしまったのである。私はこのときとても弱かった。
 先払い、そしてこの情婦が学生服を着るのかと狼狽。八十分コース。まず、制服代が二千円で計一万七千円徴収された。それにホテル代三千円がプラスされ、計二万円の消費である。異常に細い鼻穴といい、質の悪そうな髪の束、病的な浅黒い肌、しわがれた声。風呂に湯を溜める間、雑談。情婦は、二十四歳(自称)で、会社を辞めて職安に通い続けながらこのバイト(情婦)をしているとのことである。家にいることが好きだと言っている。
「こういうとこ初めて?」「そうです」
極めて童貞な私は、この日を人生の頂点の日にしようと密かに企んでいる節もあったのだが、どうにも心中は恐ろしく意気消沈せざるを得なかった。
 風呂に入る前、必死に情婦を観察したのだが、興奮する要素が一切合切見当たらない。やたらと社会的な雑談が続けば続くほど、情婦の主張である「金を稼ぐのは大変だ」という意見が学生時分には身に染みて来て、あらゆる意味で愚かしい心境に陥る。
 風呂。相手も自分も素っ裸になって風呂に入るのだが、全く興奮しない。シャワーで性器を洗われたりしてベッドイン。寝る。情婦、制服を着たが、何とも地獄と云うものがあるならば、地獄の門を通り過ぎた際に最初の受付をする受付嬢がこんな風体なのかもしれない。全身リップ。
 私の胸や顔やらを口付けしてくる。そのうち唇で口付け。硫黄の臭いがする。本当に辛い。
 そのうち制服の上から体を触ったりと私も能動的に行動を開始する。乳を揉むが、あまりの小さな乳で怒りさえ覚え始める。罰である。不気味な情婦のケツやらワキやらをじっと眺めるのも、部屋の隅を眺めるのもどちらも同じくらいの価値に思える。情婦が来る前に眺めていた天井が恋しい。
「興奮してるの?」という情婦の無機質な台詞に鬱屈し、そして情婦は私の性器をおもむろに掴んで扱く。今思えばこのときの手コキも酷く下手糞であった。陰毛、性器、全てが哀しい。
 事を終え、情婦はさっさと部屋から出て行った。学習する点は他人の難儀に難儀して世を渡る術を知ることの大切さであろうか。
 だが、私にはまだ若すぎた。慙愧に耐えぬ感情を虚しさに必死に溶けさせ、苛々と唾を地にペッペッ吐きかけながら、とぼとぼと車に乗って帰る。帰り、自宅浴室で全身を塩で磨いたことは言うまでもない。
 私はこのときほど女も金もこの世から消えてほしいと思ったことは無かった。