BON,BOMB

十二日。

 四日間の盆休みを有効に使おうと、青春18きっぷで広島まで行く具合となった。時期的に放射能に付いて考えさせられていたこともあって原爆ドームを一目見たいということで行き先を決めたのである。
 普通列車。満員。人間が至近距離にわんさか。隣にサングラスを掛けた若い男が座る。ぼそぼそと近辺に座る知り合いらしき女に話しを掛けている。私は日頃ぼそぼそと話をする若い男の声嫌いが高じており、妙に間を空けながら小声で低音の音質を囁く様に話すものであるから、男の口が自分の耳元に近かった分、すこぶる居心地が悪かった次第である。
 さて福井駅に到着すると、三十分ほど時間を空けて敦賀行きに乗る。敦賀行きも当然満員で、屈強そうなデヴが隣席に座る。デヴは荷物を抱えながら二人席の半分のラインをはみ出してくるのである。こうした公共交通機関の席なんてものはお互い様なのであるから、二人一席の椅子であるなら、平等に半分のゾーンを割譲し合うのが通常の流れであることは確かで、それを知らぬ存ぜぬで越されてしまっては甚だ困るのである。そうして私は席の半分のラインであると思われる位置を確認し、デヴのはみ出しに対してディフェンシブハーフの要領でガツンとチャージングする次第であった。すると、デヴはやや少し自陣に身をずらしたと云った具合で、これは私の勝利と言ってもよいであろうかと思われる。
 そうして敦賀駅に到着すると、トラブルがあり、関西方面に向かう電車が一本休止したために一時間以上も待つ羽目となる。待合室では人が沢山おり、この旅でも数え切れぬほどの若い女を見たが、ここでも若い女の露出染みた女体、衣装をみるや、已む無く尻を凝視し、どのような下着を履いているのだろうか、という不埒な考えが収まりきらず、どうしたものかとこれ勃起した具合である。どうにも暑さが心身を参らせているようだと売店でパンと牛乳を買い、飲み、腹ごしらえをしてそうして湖西線東海道本線山陽本線へ続く、列車に乗り込むこととなる。
 発車時のレールと滑車のうなり、車窓の田園や工場、住宅風景。さまざまな駅でさまざまな人間が乗り、降り、消えて行く。徐々に関西弁が飛び交い始め、ようやく姫路駅に着く。ここは今日の目的地であるが、あくまで通過点という認識で特に観光予定も無い。そうしてさっさとコンビニで夕食を買おうとすると、ババア店員に釣りを投げられ、腹立たしい気分を陰に潜めながらホテルに向かい、休息する。やれやれとこの日は待ち時間を含めて電車移動に七時間半を要した。
 移動中、憂鬱を思うに、私は「不謹慎」について考えていたが、不埒な思いを持つのも不謹慎であるし、デヴてめえなどと陰で悪態を付くのも不謹慎ではないかと思うのであるが、どうにも赤の他人に対しては冷めた目線を持たなければならないと思った具合である。毎日ヤフーニュースだけでも悲惨なニュースが運ばれて、私はそれを考えて(悩まない白痴ではないので)、ふけることもある。だがこういった悪に対する憎悪、善に対する情けは、結局は赤の他人の出来事にとり憑かれ、それらに自身の幸不幸を委ねているだけの虚仮である。
 賢く生きるためには他人の涙を見知らぬフリをして、どうでもいいんだ、と叫び、陽気な人生を送ってやる、と馬鹿を装うに限ることだと、しかしこんなことは世の中のほとんどの人間が当たり前にできていることだと遅まきながらようやく気づいた。

十三日。

 旅行と云うものは行っている最中は完成されない。自宅へ戻ってからああだこうだ振り返って完成されたものだと感じるのである。旅行中はただ無意識に近い状態で行動するだけである。    
 ホテルにて朝食。バイキング形式であるが、和食は小売店で売ってるようなパッキングされたおにぎりとインスタント味噌汁、洋食はパンとジャムとサラダ、スープくらいでおかずがない(おかずはもともとない)。私が朝食部屋に着いた時点でまだ朝食の時間は一時間ほど残っていたのだが、あっさりとおにぎりが品切れになっていた。元々洋食派である私であるが、パンとおにぎりの二つに一つの選択肢の一つを根こそぎ引っこ抜かれた気分はあまり愉快ではない。おそらく早朝に規格外のデブがかっ喰らったのだろうと想像できる。
 バイキング形式と云うのは最初盆を持って皿を載せて皿の上にブツを乗せていくのであるが、このホテルの盆と皿の置いてある位置はどうも死角に近くて分かりにくかった。そうして食べながらざっとやってくる他の客(主におっさん)がたまに戸惑いながら盆と皿を、コロンブスの大陸発見のように発見してバイキングに取り組む様をぼんやり眺めつつ、バターロール五個とサラダ、スープで腹ごしらえをする。  
 チェックアウトし、さっさと電車に乗る。対面式の席に座ると真っ直ぐ前を見ると目が合うので気まずいので真っ直ぐ前を見れないのが相場である。これが非常にストレスであることを今回痛感した。この日の移動のハイライトは四人用(二対二)の対面席で先に自分が座り、後から二人がやってくる。二人は自分の対面とその隣に座る。自分の隣だけが空席である。そうすると自分と自分の対面の人間は脚を伸ばせないのであるが、自分の対面の隣の人間は後からやってきたにも関わらず脚を伸ばす主導権を入手するという闇市的な理不尽が発生する。日頃どこまでも先着順が優位であると云う観念を高じさせている私は、この状況にひどく腹立たしい気分に陥り、さらに真っ直ぐ前を見ることができないこと、そして通常ならどうでもいいと思える話し声さえにも甚だ腹立たしくなる具合であった。
 そうして三回乗り換えて五時間近く掛けて広島駅に到着する。昼飯を食べずに昼三時というふらふらの状況だったので兎に角昼飯を食べようと駅構内をざっと眺める。構内の立ち食いそばを食べようかと思うも、飯がいいと、駅近くの駅丼なる店に出向きチーズ豚丼(四百五十円)を食した次第である。
 腹ごしらえをし、とうとうこの旅のメインイベントである原爆ドーム鑑賞を遂行することとなる。広島駅から原爆ドームへ行くには路面電車に乗って「原爆ドーム前」という分かりやすい電停で降りればよいようだ。路面電車初体験であり、やや緊張した面持ちで乗り込むが、やはり人混みが凄い。外国人を含む汗臭い客で密集しており、穏やかそうな女子のうなじが至近距離でどうしたものかと不埒に二十分ほどで十駅を過ぎ、到着。百五十円を払い、降りる。
 平和記念公園に敷地に入る。蝉の鳴き声と湿気と暑さで苛まれた空間を歩くと、ここが六十六年前に被爆した凄惨な場所だったのかと、感慨にふけ、しばらく歩くと厳重に周囲を柵に覆われた原爆ドームが存在していた。

 最初の印象は小さいと云うこと。これは「ドーム」という名称で長年、大きなものだと勝手に想像していたからで、とあるチェコ人が設計した広島県産業奨励館というものは「ドーム」ではなく、ごくありがちな建物であったことを認識した。

 しばらく歩くと広島平和記念資料館がある。

 中に入ると入場料は大人五十円と云う安価で、受付に行って小銭を出そうとしただけで、館員はさっさと券を渡してくる勢いで、そのタダ券をばら撒くような様に内心苦笑しつつ、五十円支払い、券を受け取る。
 やはり、人混みであらゆる資料の前に人だかりができている。白人の外国人鑑賞者も割りと多い。序盤はあまり惨劇じみた資料は無く、経緯やら歴史の資料やら、これは徐々に慣らしていく様に配慮してあるのかとすら思わされるくらいであった。
 なるほど、資料館を進めば進むほど陰惨な光景に出くわすようだ。
 後半になると被爆して亡くなった人の直筆の手紙や、被爆した人を再現した模型がある。黒い雨の中、全身の皮が爛れきって、両手の爪先からぶらぶらと膿のようなものが出て、全身が火傷で、服もボロボロの模型は迫力があった。他に被爆当日に撮られた写真も展示されており、カラーではなかったが被爆した人たちが助けを求めて集まっている様子で、髪の毛が不自然にボサボサになっており、体の皮膚も火傷が多数見受けられ、服がボロボロな状態である。遺物の展示は被爆した翌日に亡くなった中学生の服や弁当箱、爪、皮膚も展示されており、陰惨の一語である。
 原爆か何かも分からず一瞬で炭化されてしまう人もいれば、被爆して大火傷の後、数日苦しんで亡くなる人もいれば、数年じわじわ苦しんで亡くなるという様を考えさせられ、これは唯事ではないな、と思わされる。
 小学生時代に小学校で様々な被爆した人の資料をやたらと見せられたり、「はだしのゲン」を読んだりしたこともあり、さほど衝撃は受けなかったが、やはり実際に現場に来て思うことは濃密である。