京都へ 

人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこには生命の発露があるのだ。(文庫本・P7)

 日の出4;34。朝、高速バスに乗り京都へ。
 重層の湿気に包まれた梅雨の京都ではあったものの、運よく傘を差すほどの大降りの雨には見舞われなかった。

「俺はね、毎年六月になると無性に死にたくなるんだ」と
語ったのは太宰治。六月はじめじめとして何だか生気が抑えられている気がする。だからこそこの時期、自分を見つめ直さなければならないのだと思う。
烏丸通を進み、東本願寺へ。


親鸞の750回法要だとか、やり過ぎの感が否めない。どういう人なのかも事前に情報収集しておくべきであった。
引き続き、烏丸通を歩き続けること30分ほどで烏丸丸太町交差点。そこにあるマクドナルドがアオキ書店ビルという建物内にある。木と交番とマクドに囲まれた交差点、風情がある。

 アオキ書店で、スープの本とカクテルの本を立ち読みした。少し勉強したぞ。でも、始めてサーバーを使って料理を運んだが、料理の名も知らなかったことがウェイトレスとして恥ずかしい。(文庫本・P127)

マクドナルドの前には自転車が多数駐車してあり、繁盛している模様だ。入ってみると、三階立てで自習するにも十分なスペースがある。忠実やかに自習をする学生風情も見受けられた。アイコンチキンイタリアンハーブセットを注文。チキンはやっぱりKFCがいいと思わされ、しょっぱいポテトをがぶがぶとジュースで流し込む。京都まで来てマクドを食べるってどうなんだろ。
外へ出てまた歩き出す。とても疲れる。

 一歩、自分の部屋から足を踏み出すや否や私はみじめになる。電車の中で、繁華街で、デパートの中で、センスのない安ものの洋服を着た不恰好な弱々しい姿をしているのに耐えられなくなる。美しく着飾った婦人に対する嫉妬、若い男に対しての恥ずかしさ、それらが次から次へと果てしなく広がり、みじめさはドンドン拡大する。(文庫本・P37)

二条城を眺めつつ、京都国際ホテル到着。

 アルバイトをして、ウェイトレスに投げかけられた優雅な微笑に、恥ずかしげに嬉しげに微笑んで、生きる勇気が得られたと思っているチッポケな私であるのですが。(文庫本・P77)

 京都国際ホテルにウェイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。
 彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。私の知っていた人たちはほとんどが学生で、インテリゲンチャの予備軍のような存在(私もまた)であることを知らされる。彼女たちはあまり本は読んでいないだろう。タクシーの運ちゃんがいっていた。小学校を出て曲折を経ながら運転手をやっている。十九歳の娘と、妻がおり、あと三、四年たてば孫からおじいちゃんと呼ばれるだろうと嬉しげであった。 
 人間って一体何なのか。生きるってどういうことなのか。生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬのか。今、私は毎日毎日広小路で講義を受けるがごとくアルバイトに通い働いているのだが。(文庫本・P85)


 今回、五年前に出会った本、「二十歳の原点」の影響でミーハー的に京都にやってきた。ホテルでぼんやりしながら本を読み返すとまたいろいろと考えさせられてメモを書いて見て自分を見つめてみたり。そうして冒頭で引用した部分が一番心に響いたわけで。不完全さを克服しようとする姿勢、それといきり立っても性急になり過ぎないことを今後の生活で取り入れる必要があると思えた。もうすぐ高野さんが亡くなって四十二年が経つ。学生運動の最中、彼女が孤独に身を置いて闘っていた場所は今、素朴で過ごしやすい街であった。
京都日の入り19:13。ぐっすり寝る。

二十歳の原点 (新潮文庫)

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二十歳の原点 [新装版]

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