寂れた休憩所など

 古びた看板には「カレー」「ラーメン」などと表記されている。外見は汚い。入り口のガラス戸の時点で酷く汚れている。普段なら近寄りたくもない場所だが、空腹感に悩まされ、このままでは帰社する前に悶えそうと思い、国道沿いにある寂れた休憩所へとやってきたのである。
 汚らしいガラス戸を開けると、古びたゲームセンターがある。誰一人ゲームに興じる者はいない。隣の自販機コーナーに移動すると、やはり人はおらず、メンテナンスが良くなさそうで自販機の半分近くのジュースに売り切れランプが灯されている。側にはごみ箱と、ポリバケツが置かれている。ポリバケツにはカップ麺の残り汁が捨てられており、捨て汁の臭いが充満し、さらに煙草の臭いと相まって店の中の空気は酷く澱んでいる。トイレの前には「トイレ使うなら何か買ってね!」と酷く野暮ったい走り書きのメモが貼られている。
 とりあえず100円で紙パックのオレンジジュースを自販機で買い、ストローで吸う、旨い。パッケージされたジュースならどんな場所で飲もうが問題なく旨い。そうしてメインデッシュであるシーフードヌードル(¥180)を購入する。割高だ。手に取り、ビニールを破り、蓋を開け、備え付けの熱湯口にヌードルを置き、湯を満たす。湯を入れたヌードルを使い古しの長机の上に置く。近くには本棚があり古びた本が散乱している。これら数十冊を全てブックオフに持って行ったとて全て買い取り不可と思われるほど傷んでいる。他に机上には新聞紙やカーカタログがだらしなく佇んでいる。
 このような場末感漂う場所からは一刻も離れたい、けれども何より空腹に耐えられない。そんなドぎつい心情で、湯を入れて僅か一分ほどでヌードルの蓋を取り、備え付けの割り箸を割り、バリカタのヌードルを忙しなく口に運ぶ。酷く、旨い。空腹こそ最大の調味料である。
 完食すると、どうも自慰の後の不快感にほど近い状態に陥る。なぜ俺はこんなところで180円出してシーフードヌードル喰ってんだ、と。ニコチンとカップめんの臭いが澱む空間に佇むとあてもない焦燥感に駆られそうになってきたので足早に残り汁を汚いポリバケツに放り、容器はゴミ箱に投げ、誰もいない休憩所を出る。


 空を眺める。夕暮れの雲は陽の影として地を占める。燦然とした星空に変わるや否や、冷気が染みるほどにやってくる。強烈な直射日光の季節の終わりをようやく感じる。夏の終わり。
 部屋。何でもないのにほくそ笑んだり、資格の試験日や概要を確認して、そうして、参考書は一冊も読まなかった。ただ、部屋の中で蠢く日常。気持ちは、刻一刻と狼狽し、なんだか空っぽだ。許してくれないだろうか。ダメか、もう。どうにも落ちつかない。言いたい事、書きたい事は山々ある。けれど座っているうちに感情が消え失せてしまう。何か建設的なことをしなければならない、と焦るものの整理整頓すらも難儀している。いるもの、いらないものを分けていらないものをまとめた翌日にまた散らかしてしまう。宗教でもしようか。何も集中できない。虚無とさえ連帯感を持てそうにない。