創作「牛」

目に見えぬ惨劇。そんなものに脅かされながら痴呆に澱んでいた。
偏頭痛に苦しまされながら、日付を塗りつぶしながら自責の念に囚われて生きている。
人間という生き物は嘘と欲に囚われながら死んでいくのだろうか。牛。マヌケな鳴き声とのそのそとした動き。私はおっとりとした牛が好きである。




昔々の大昔のある年の暮れのこと、神様が動物たちにお触れを出したそうな。
「元日の朝、新年の挨拶に出かけて来い。一番早く来た者から十二番目の者までは、順にそれぞれ一年の間、動物の大将にしてやろう」
それを聞き、多くの動物たちは何も疑わず、ただ『“動物”の大将』を目標とし、元日に向けて走行練習を開始していた。
スタート地点は陸奥国の寂しい草原(現在の福島県西部)。ゴール地点は大和朝廷奈良盆地までで、ひたすら走るというもの。神の考えることはいつだってあくどい。これは古墳作りを勤しむ人間に「動物も頑張っているんだ」と思わせ、“人間”の労働意欲を喚起させるために考え出した企画物であった。人間一人の豊かさのために百匹の動物が犠牲となり、さらに大王一人の豊かさのために数千人の人間が犠牲となる。冷酷、非情な世の仕組みを作ったのは紛れもなく、神である。


猫は考えた。
「今、現在我々動物たちが人間の支配下にさらされ、地球の主役を『人類』に握られ続けているのはこういったレースにおめおめと参加する我々の単純さ、弱さが原因ではないか。このままでは人間にコキを使われ続けて、縛られ続けるだろう」
他の動物はきょとんとした。
「…猫君や、そう考えるのも無理がないが。しかし動物に生まれた以上は貰える肩書きは貰っておくべきではないか」
牛が煽てる。
「いや猫さんよ、その通りだ。神の言った『大将』という肩書きも本当なのか信用できぬ。奴は普段からペテンじみている」
と鼠。鼠は猫を蹴落としたかった。一匹でもライバルが減れば、大将となる確率も上がる。鼠は神の指令に歓喜していた被支配者の一匹に過ぎなかったのである。彼は図体の小ささから『大将』という地位に一種の羨望を抱いており、、いや、ただそれだけのことである。
鼠は戦略を練っていた。体の小ささから言っても長距離走には圧倒的不利である。当時は科学トレーニングも薬物などという便利な物もなく、ドーピングもできない状況だったので、持久力を兼ね揃えた大動物が有利ではないか、と絶対的不利である小動物からは一部、反対意見もあった。だが、鼠には勝算があった。優勝候補の頭に乗っかり、ゴール直前で飛び出すという自身の体でできる勝ち方を考えていたのである。
小物の鼠はさておき、猫以外の動物たちはレース時にどこで休憩をするだとか、どういうご当地名物があるだとかを永延と雑談している。
「動物の大将になろうとも、結局は人間の支配下ではないか」。猫は鬱々と考えていた。


晦日の朝、猫のもとに牛がやってきた。
「世の中の仕組みを覆そうたってそりゃ無理さ、猫君。得られるものを何とか得ようではないか。我々はどうしたって動物だ。
私は皆より足が遅いと自負している。故に一日早く出発するよ」
そう告げて牛は淡々と走り出していった。
そういう思考こそが人類を磐石の強い地位にしてしまうのだ、と猫は考えようとしたが、止めた。戸棚に眠っていた鰹節をつまみに半ば自棄気味に呑み、正月三が日が終わるまで何も考えずにゴロゴロと臆面もなく、呑み続けることにした。猫が冬場に炬燵でゴロゴロしだすようになったのはこの頃からである。
猫が呑みだした頃、鼠はひた走る牛の頭に乗っていた。頭に乗るという作業もこれはこれで一つの賭けであり、一番早く着く動物に乗らなければ一位にはなれない。足の速さは虎がどう考えても速いのだが、一日早く出る牛なら大丈夫だろう、と牛に全てを託す賭けをしたのである。彼はその後、その賭けに勝ち、優勝動物として煽てられる。
牛は一番になりたくはなかった。優勝すると目立ってしまうのである。目立つことは避けたい、とにかくのんびりと終生を過ごしたい。そう思いながらも、そこそこ煽てられたりもしたいので、二位か三位を狙っていた。実は、頭に鼠が乗っていることは最初から知っていたのである。牛は鼠を運ぶ、運び屋として走っている自身と、得意げな顔をして乗っている鼠に内心、苦笑していた。
レースの三分の二の地点を過ぎた頃、牛は口を開いた。
「若旦那!」
鼠はキョトンとした。
「若旦那の鼠よ、いるのは分かっている」
鼠は困惑していた。
「堪忍してくらはれ!」
鼠、もはや狂態していた。
「私は別に優勝を狙っていない。そそっかしい旦那に優勝をくれてやる。しかしこれからは私の作るチーズの固定客となってもらう」
「へ、へへい喜んで」
鼠がそれからチーズをよく食べるようになったのはこの騒動が種である。