所有欲なし

北の国から」が好きで(といってもスペシャル版しか見たこと無い)、95年の作品を見ていたら純の彼女がAV女優だった過去を隠していたということで純は怒り狂うんだが、こういう感覚が全く分からん。そりゃあ確かに純の友人がばらしてしまったのは悪いことだとは思う。人間は完全にできておらず、知らなくてもいいことを知ってしまったときに必ず動揺することを理解していなくてはならない(ああそれこそ太宰の「人間失格」で嫁を寝取られた主人公が、寝取られたというその事実を友人に知らされたことにより、廃人になるような、事実そのものよりも事実を風評させることによる悲劇をなんとしても回避させなくてはならない)。
もし身近な誰かがAVに出ていても精神病でも別にどうでもいい。自分には積極的に他者に干渉する気が無い(する気がないだけでいざとなれば世間と繋がっていたいという意識から必死にするだろうが、何事にもこだわりがないので会話が続く気がしない)。だから身近な誰かがどういう職業でどうしてようがどうでもいいことでそれが疲れていたら疲れを治したいと思うし、その人の空気が居心地よければその人の願望を少しは叶えたいとは思うけど、単にそれだけで、それだけで、他に何をどうしろというの…?自分は孤独で冷めているのか。
所有欲というものが自分には理解できなくて、いやホント理解できない。
何人もの男に挿入されたことがある女子っていうなら病気的な衛生的な面で嫌かもしれんが、ただそれだけのことだ。別に貞操観念が緩くてもよくて、『貞操』、そんなものは誰かが作ったおとぎ話だ。セックスすることは人間として当然だから。(しかし自分は何を所有しているというのだ。肩の荷がああ、重くしてどうする…)。
あらゆる人間を特別視することが苦手で、人間は誰でも糞尿を垂れ流している惨めな生き物だという意識が念頭にあるからくだらない差別めいた意識も消えかけている。そうだくだらないのだ。人間は価値を植えつけて植えてつけることに必死になるが、時として植えつけてもムダだと反転させた意識を持つことが今は重要だ。