差別用語

先日、昼メガネの番組で宝塚女優が「キチガイ」発言をして記事になっていたが、キチガイ差別用語認定するなら「美人」も「可愛い」も「格好いい」も差別用語だよなと思う。
「美人」。なんと恐ろしい言葉だろうか。その言葉を発することは「美人」の逆、「美人じゃない」人間というものを認識する能力を持っていることをも居丈高に公表することでもある。「かっこいい」ということはそれ以外の者を「かっこいいとはいえない」と認識していることを露呈していることだ。こんな言葉が使われ続けることにやれやれと思ってしまう。
自分は本心で人を美人だとかカッコいいと思うことは全くない。どんな人間も愚かさを持っている。しょうもないほどに愚かな一面は誰にだってあることを認識している。どんなに綺麗な施設にもトイレがあり、ごみ置き場がある。それは必要不可欠なものだ。人間にも性器がある。排便をする。そんな人々が美人であり、カッコいいのが疑問だ。ひょっとしたら自分の美醜基準がおかしいのかもしれない。自分は外見はもちろん、性器が美しくて排便模様も美しい、老廃物も美しい、体中のあらゆる穴の一つ一つも美しい人間を初めて美人と認定する。しかし、そんな人間は絶対にいないだろう。いや絶対にいない。だからこそ断片的な様子だけで「美人」という言葉を使用する世の中に違和感を覚える。この言葉を単純にリップサービスとして使い続けて、己の精神状態を揺らがしているどこかに存在する方々を密かに敬っておこう。
完璧すぎる物、言葉は嘘だと思う。完璧なものが一つもないから世の中が成り立っているのだろうとさえ思う。
自分は過大評価が嫌いだ。特定のものを過大視するということはそれ以外を排斥しているのではないか。美人を美人と持て余すあまりにそれ以外のものを無意識に排斥しているのではないかという意識。この意識が強いからこそ、特定の者を過大視せずに万人が傷つかないような言葉選びをしなければならないとつくづく思っている。